29話 無言の車内
あれから1日経っても、エリ先輩は語らない。もし通報が白川さんとの打ち合わせのことなら無実を証明する鍵になるかもしれないのに、提出しようとしない。
所長のスケジュールを見ると、週明けの予定に「人事会議」とあった。もう時間がない。月曜日には、エリ先輩の処分が決まってしまう。
今日は、エリ先輩の営業に同行する日だった。電車だと思ってICカードにチャージをしていたけれど、今日は遠いから車で行くと言われた。準備をして、会社の駐車場に降りたところにあったのは、見慣れた社用車ではなかった。
「社用車は出払っていてな。自分の車で行くことになった」
「えっ、エリ先輩の車ですか…?」
「そうだ。行くぞ」
黒が混じったような深い青の、スタイリッシュなフォルムに、たじろいでしまう。助手席に乗るように促されても、すぐにはドアを引けなかった。早くと言われて、先に足を踏み入れる。
「お、お邪魔します……」
緊張してしまう。黒い車内には私物が一切置いていないけれど、逆にそれが先輩らしい。
いや、違う。ダッシュボードの上に、木彫りのラクダが乗っている。あっと思った瞬間に先輩が運転席に乗り込み、さっとポケットにしまいながら言った。
「肘置きも使ったらどうだ」
「い、いえ、このままでいいです」
そう言われても、無理。背もたれに寄りかかることで精いっぱいなくらいだ。ハンドルを握る腕に、どぎまぎしてしまう。でも、車が動き出した瞬間、先輩はただまっすぐに前を見つめて言った。
「今日は気合入れないとな。俺がいなくなっても、お前が俺の客を引き継げるぐらいには、ノウハウを叩き込んでやる」
「……ですから、私は営業事務なんですって」
熱かった手の指が急速に冷えていく。そんなこと、言わないでくださいよ。
先輩も私も、目的地まで無言だった。
***
今日の活動が終わり、私たちは車に戻ってきた。先輩が駐車料金を支払っている間も、私はその後ろでぼんやりと葉の落ちていく木の枝を眺め続けていた。
「お前、顔に出すなよ。客が心配してただろうが」
先輩は怪訝な顔をしながら財布をしまった。
「すみません……」
先輩にどんな処分が下されてしまうのか。不安で、怖かった。先輩の商談姿を見るのはこれが最後なんじゃないかと思うと、私が平然としていられるはずもない。営業ノウハウを引き継ぐどころか、笑顔も作れずにただそこにいるだけの、今までで一番役立たずな同行になってしまった。
「出発するぞ」
「……」
シートベルトを締めてエンジンをかける先輩に、返事をすることもできない。
鞄を膝に抱くようにかかえる私に、先輩はぽつりと言った。
「この後時間あるか?」
「時間?会社に戻るんですよね。いつも通り議事録を……」
「……いや、直帰しよう」
「えっ……」
先輩は、ハンドルを切った。
カーナビには、「鍵ノ先海岸」と表示されていた。




