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恋は襟を正してから〜鬼上司の不器用な愛〜  作者: プリオネ
第三章 それぞれの過去
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16話 フラッシュバック

 雑踏の中に一瞬見えた、見覚えのあるグレーのスーツ。首元で主張する、紫と黒の個性的なネクタイ。円が幾重にも重なる、めまいを起こしそうなその模様が目に入った瞬間、私の足が止まった。


「芦尾?」


 向こうは私に気が付かなかった。けれど、はっきりと分かった。あれは、前の職場の──


 どくんと心臓が動いた。突然呼吸の仕方を忘れ、動けなくなる。胸を押さえても、うまくできない。


「はぁ、はぁ」


「おい、どうした」


 視界が揺らぐ。心の奥底に閉じ込めていた記憶が、一瞬で蘇った。今も耳元に響く、暴言の数々──


「芦尾っ!」


 エリ先輩のスーツに伸ばした手が空を切る。私はその場で、意識を失った。


***

 

 泣くと、泣いたことを責められた。

 

 誰がやってもいいことを一度でも私がやると、その日から私の担当になる。同僚たちは裏では励ましてくれるものの、いざとなると上司の味方。人格否定は日常で、言い返せない私は、都合の良いストレスのはけ口だった。そのくせ飲み会になると機嫌よくすり寄ってきて、酒を無理に飲まされた。そして──


「……申し訳ございませんっ!!」


 飛び起きると、揺れる緑が目に入った。さわさわとそよぐ木の葉が、私を日差しから守っている。前のオフィスじゃない。頬が濡れている。私、何していたんだっけ。


「大丈夫か?」


 振り返ると、隣にエリ先輩が座っていた。よく見ると、私の頭があったところに先輩の鞄が置かれていた。


「……エリ先輩……すみま……」


「倒れたんだぞ。暑さか?それとも持病でもあるのか?」


「いえ……そうだ、ちょっと、前の会社の上司を見かけて……」


「……」


 資料の入ったクリアファイルを私に向けて仰いでくれている先輩の、こめかみに光る汗を見ていると、何かが込み上げてきた。


「……うっ」


「芦尾?」


 だめだ。我慢できない。決壊したように涙が溢れ、スーツに落ちていく。止めることができず、嗚咽まであげてしまう。


「どうした……俺がその上司に重なったか」


 優しく問いかける声に、私は首を振った。


「……いいえ……っ、先輩がいて、あっ、安心して……」


 鞄を漁るが、ハンカチが見当たらない。こんな時に限って。恥ずかしくて自分を責めていたら、横から先輩が自分のそれを差し出した。糊のきいたネイビーのハンカチを少しためらいながら受け取って、目の下に当てた。



 

***




「すみませんでした。早く会社戻らないと」


 ようやく落ちつけた。泣きすぎて、まだしゃくりあげるけど。枕にしてしまった先輩の鞄をはらって、彼の手に渡す。残っていたペットボトルの中身を飲み切って、立ち上がった。


「いや、今日は帰った方がいい。所長と里中さんには言っておく」


「大丈夫です」


「大丈夫なように見えない」


 少し強い口調で言われ、ひるんだ私は大人しく帰ることにした。同じ電車に乗り、途中の乗り換え駅で降りる先輩に頭を下げる。


「ちゃんと休めよ」


「はい……」


 先輩は降りる直前に振り返って私と目を合わせたが、人の波に飲まれてすぐに見えなくなった。


 一気に空いた車内。珍しく明るい時間に帰ることになった私は、席に座って先輩のハンカチを取り出した。

 

 私はどうして、いつも怖いと思っているエリ先輩が横にいて、安心したのだろう。


 沈みゆく太陽が、私の涙で湿った布を優しく温めた。








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