前世で結ばれなかった無愛想な辺境伯様に、今世こそ「愛してる」と伝えたい~政略結婚の夫は、私を守るため心を殺していた~
降り立った辺境の地は、どこまでも白く、静寂に包まれていた。王都の喧騒とはあまりに違う、凛とした空気。伯爵令嬢リディアは、揺れる馬車から差し出された手に導かれ、冷たい雪を踏みしめた。
見上げる先には、石造りの巨大な城塞。ここが今日から、彼女の家となる場所。そして、城の主であり、彼女の夫となる人物――『氷血の辺境伯』カイゼル・フォン・ヴァルテンベルクが、感情の読めない硬質な瞳で彼女を見据えていた。
「ようこそ、リディア嬢。長旅、ご苦労だった」
低く、抑揚のない声。歓迎の言葉とは裏腹に、その声にも表情にも温かみは欠片も感じられない。これが、国の防衛の要であり、最も厄介な土地を治める若き辺境伯。そして、リディアが政略によって嫁ぐことになった相手。広い玄関ホールに案内されても、侍女たちの動きはどこかぎこちなく、よそよそしい空気が漂う。この広大な城で、彼女はたった一人、見知らぬ土地に放り込まれたような心細さを感じていた。
リディアには、秘密があった。時折、まるで夢現のように蘇る、断片的な記憶。燃え盛る戦場、あるいは煌びやかながらも陰謀渦巻く宮廷。そこで彼女は、カイゼルによく似た、けれど違う名を持つかもしれない男性と、深く、深く愛し合っていた。しかし、その愛は悲劇によって無残に引き裂かれた。彼が血に塗れて倒れる姿、あるいは彼を守れず自分が息絶える瞬間――どちらだったか定かではないが、耐え難い喪失感だけが生々しく胸に残っている。
だから、今世でカイゼルと巡り合い、政略とはいえ夫婦となることに、リディアは運命的な何かを感じずにはいられなかった。凍てつくような彼の態度にも、「きっと何か理由があるはず」「今世こそ、彼の隣で、彼を守り、共に生きたい」と、切なる願いを抱いていたのだ。
だが現実は、その願いを打ち砕くように冷たかった。初夜は形式的な挨拶だけで終わり、それ以降、カイゼルは徹底してリディアを避けた。食事は常に別々。彼は書斎に籠もりきりで、昼夜を問わず執務に没頭しているようだった。廊下で偶然すれ違っても、向けられるのは氷のような一瞥と、必要最低限以下の短い言葉だけ。
「……私のことなど、やはり、どうでもよいのだろうか」
広すぎる寝室で一人、窓の外で舞い続ける雪を眺めながら、リディアの心は冷え切っていく。前世の記憶があるからこそ募るカイゼルへの想いと、現実の彼の拒絶。そのギャップが、彼女の心を深く、深く傷つけた。自分がここにいる意味さえ見失いそうになり、日に日に自己肯定感は削られていった。
追い打ちをかけるように、辺境に来てからというもの、リディアは原因不明の体調不良に悩まされるようになった。時折襲ってくる、胸を締め付けるような鈍い痛みと、鉛のように重い倦怠感。侍医は「慣れない土地での疲れ、あるいは軽い風土病でしょう」と診断したが、リディアにはそれが単なる体調不良ではないような、漠然とした不安が付きまとっていた。まるで、見えない何かに、少しずつ生命力を吸い取られているような……そんな不気味な感覚があった。
それでも、リディアは諦めきれなかった。前世の想いがあるから? それとも、冷たい仮面の下に隠された何かを、本能的に感じ取っていたからだろうか。彼女はカイゼルの好物だと侍女から聞き出した料理を厨房に頼んで作ってもらったり、夜遅くまで執務に励む彼のために温かい飲み物を差し入れようとしたり、僅かでも接点を持とうと試みた。
「……余計なことは、するな」
書斎の扉越しに告げられたのは、拒絶の言葉。差し出そうとしたトレーを持つ手が、空中で震えた。
「あなたは辺境伯夫人だ。その立場に相応しい振る舞いだけをしていればいい。それ以上のことを、私は望んでいない」
突き放すような冷たい声が、リディアの最後の希望さえ打ち砕くかのようだった。心が、ぽきりと音を立てて折れた気がした。涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。これ以上、彼に惨めな姿を見せたくなかった。
そんな日々が続くある午後、気分転換にと庭園を散策していたリディアは、降り積もった新雪に足を取られ、バランスを崩した。
「きゃっ……!」
短い悲鳴と共に体が傾ぐ。目を閉じた瞬間、力強い腕が彼女の体をぐっと支えた。驚いて目を開けると、そこには、厳しい表情をしたカイゼルが立っていた。偶然通りかかったのだろうか。
「……大丈夫か」
間近で見る彼の瞳には、一瞬、明らかに心配の色が浮かんでいた。支える腕の確かな温もりが、冷え切ったリディアの心に微かな熱を灯す。しかし、それも束の間。カイゼルはすぐに我に返ったようにリディアから体を離すと、「……気をつけろ」と、いつもの冷たい声で言い捨て、足早にその場を去っていった。
残されたリディアは、彼の腕が触れていた箇所に残る温かさと、一瞬見せた彼の動揺に戸惑っていた。やはり、彼は何かを隠しているのではないだろうか。あの氷のような態度は、彼の本心ではないのかもしれない。微かな、本当に微かな希望の光が、リディアの心に再び灯り始めた。
だが、希望とは裏腹に、リディアの体調は着実に悪化の一途を辿っていた。眠れない夜が増え、食事も喉を通らなくなり、鏡に映る自分の顔は日に日に青白く、やつれていく。胸の痛みは頻度を増し、時折、前世で死に瀕した瞬間の、あの息苦しい感覚が蘇るようになった。言いようのない恐怖が、じわじわと彼女の心を蝕んでいく。
そんなある深夜、またしても眠れずにベッドを抜け出したリディアは、カイゼルの書斎から微かに漏れる光に気づいた。胸騒ぎを覚え、そっと扉に近づき、隙間から中を覗き見る。そこには、苦悶の表情で机に積まれた古い文献を読み漁るカイゼルの姿があった。何かを低く呟きながら、彼は必死に何かを探しているようだった。
別の夜には、自室に戻る途中で、彼の部屋の扉が僅かに開いているのに気づいた。中から、呻き声のようなものが聞こえる。気になって覗き込むと、彼は上着を脱ぎ、自らの腕に巻かれた包帯を苦しげに解いていた。そこには、新しい、生々しい切り傷があった。まるで、何かと激しく戦ったかのような傷跡。
――彼は、私に隠れて、何かと戦っている? 私の知らないところで、傷ついている?
リディアの中で、点と点が繋がり始める。彼の冷たい態度、時折見せる苦悩の表情、そして深夜の行動。全てが、何か大きな秘密に繋がっているように思えた。
――リディア。
書斎の灯りの下、カイゼルは唇を噛み締めていた。目の前には、解読困難な古代文字で書かれた呪術書。前世、愛するリディアを守れず、腕の中で冷たくなっていく彼女を看取った絶望は、今も彼の魂に焼き付いている。神の気まぐれか、奇跡か。今世で再び彼女に出会えた時、彼は歓喜に打ち震えた。伯爵令嬢として美しく成長したリディア。政略結婚という形で、再び彼女を傍に置くことができた。
だが、喜びも束の間、彼は知ってしまったのだ。リディアには、前世の悲劇を引き起こした者によって、悪質な呪いがかけられていることを。「深く愛されるほど、その愛を糧として生命力を蝕む」呪い。愛すれば愛するほど、彼女を死に近づけてしまうという、残酷な呪縛。
だから、彼は心を殺すしかなかった。愛している。片時も離れたくない。その温もりに触れていたい。だが、その想いを表に出せば、呪いは彼女を蝕む。彼はリディアに冷たく接し、距離を置くことで、呪いの進行を遅らせようとした。そして夜ごと、呪いの解呪方法を求めて文献を漁り、呪いの根源である魔物や、それを操る者の痕跡を追い、人知れず戦いを続けていた。腕の傷など、彼女を守るための戦いの証に過ぎない。
「リディア……すまない……。必ず君を守る。この命に代えても……」
だが、解呪の手がかりは一向に見つからず、リディアの衰弱は進んでいく。焦りと絶望が、カイゼルの心を蝕んでいた。
満月の光が、雪景色を青白く照らし出す夜だった。
リディアの部屋から、侍女の悲鳴が上がった。異変を察知したカイゼルが駆けつけると、リディアはベッドの上で苦悶に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返していた。全身が熱いのに、指先は氷のように冷たい。胸を押さえ、か細い声で呻いている。
「リディア!」
呼びかけにも、虚ろな瞳が僅かに動くだけ。侍医は首を横に振り、「もはや手の施しようが……辺境伯様、お覚悟を……」と絶望的な言葉を口にする。
その瞬間、カイゼルの全身から激情が迸った。
「下がらぬか! 役立たずどもめ!」
侍医も侍女たちも、カイゼルの凄まじい気迫に怯え、部屋から逃げるように出ていく。残されたのは、静寂と、消えかかろうとするリディアの命の灯火だけ。
解呪方法は、見つからなかった。残された手段は一つ。古代文献に記されていた禁術――「魂の共有」。己の生命力と魔力を注ぎ込み、呪いを己の身に移し替えるという、危険極まりない儀式。成功の保証はなく、下手をすれば二人とも命を落とす。
だが、カイゼルに迷いはなかった。前世で守れなかった後悔を、繰り返すわけにはいかない。
彼は震える手で、リディアの冷たい手を握りしめた。
「リディア、聞こえるか……?」
彼の声は、掠れていた。初めて聞く、感情の籠った声。
「すまなかった……。ずっと……君を、愛していた」
堰を切ったように、言葉が溢れ出す。
「前世で君を守れなかった時から……ずっとだ。今世で君を見つけた時、どれほど嬉しかったか……。だが、君には呪いがかけられていた。私が愛せば、君の命が危うくなる……だから、冷たくするしかなかったんだ……!」
彼の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。『氷血の辺境伯』が、初めて見せた涙だった。
「愚かな私を、許してくれとは言わない……。だが、これだけは信じてくれ。リディア……君を、愛している」
カイゼルはもう片方の手をリディアの額にかざし、儀式を開始した。彼の体から、膨大な魔力と生命力が眩い光となって溢れ出し、リディアの体へと注ぎ込まれていく。カイゼルの顔はみるみるうちに蒼白になり、苦痛に歪むが、彼は決してリディアの手を離さなかった。歯を食いしばり、己の全てを捧げるように、力を注ぎ続ける。
朦朧とした意識の中、リディアはカイゼルの言葉を聞いていた。彼の涙が、自分の頬に落ちるのを感じた。そして、流れ込んでくる温かい、力強い何か――それは紛れもなく、彼からの愛だった。その温かさに呼応するように、閉ざされていた前世の記憶の扉が完全に開かれる。愛し合った日々、彼の優しさ、そして悲劇の瞬間。今世での彼の苦悩、孤独な戦い、秘められた深い愛情……その全てが、奔流となってリディアの魂に流れ込んできた。
ああ、そうだった。彼はいつだって、私を……。
「カイゼル……っ!」
か細い声が漏れる。理解した。全てを。彼の愛を。
リディアは、最後の力を振り絞って、カイゼルの手を弱々しく握り返した。
「カイゼル……私も……あなたを……愛しています……!」
涙が止めどなく溢れる。
「前世から……ずっと……! 今度こそ……一緒に……生きたい……!」
魂からの叫び。それは、時を超えた二人の愛の誓い。
その瞬間、奇跡が起こった。リディアの純粋な愛の力が、カイゼルの注ぐ力と共鳴し、部屋中が温かい、黄金色の光に包まれた。リディアの体を蝕んでいた呪いの気配が、まるで浄化されるかのように急速に薄れていく。呪いは完全には消滅しなかったかもしれない。だが、二人の愛の力によって、それは制御可能な、あるいはカイゼルが引き受けつつもリディアの愛によって負担が軽減されるような、新たな形へと変容を遂げたのだ。
光が収まった時、部屋には穏やかな空気が満ちていた。カイゼルは激しく消耗し、その場に膝をつきそうになったが、安堵の表情を浮かべていた。リディアの呼吸は穏やかになり、血の気が戻っている。ゆっくりと目を開けた彼女の瞳には、確かな光が宿っていた。
「リディア……!」
「カイゼル……!」
カイゼルは、残った力を振り絞ってリディアを抱きしめた。壊れ物を扱うように、それでいて二度と離さないと誓うように、力強く。リディアもまた、彼の背中に腕を回し、その温もりを確かめるように顔を埋めた。涙が止まらなかった。悲しみではなく、喜びと安堵の涙が。
「もう決して離さない。君の隣にいる。今度こそ、永遠に」
カイゼルの囁きは、固い誓いとなってリディアの心に響いた。リディアは、涙で濡れた顔を上げ、ただ深く頷いた。長い、長い時を超えたすれ違いと誤解が解け、二人の魂は、ようやく真に結ばれたのだった。
呪いの脅威が去り(あるいは、二人の愛によって管理下に置かれ)、リディアは驚くほどの速さで回復していった。身体の回復もさることながら、彼女の心にも大きな変化が訪れていた。カイゼルの深い愛を知り、受け入れられたことで、過去の傷は癒え、失いかけていた自己肯定感を取り戻したのだ。以前の控えめさはそのままに、どこか芯の通った、穏やかで明るい表情を見せるようになった。
そして、カイゼルもまた変わった。『氷血の辺境伯』と呼ばれた冷徹さは、公の場での厳格さとして残ってはいるものの、リディアの前では影を潜めた。彼は不器用ながらも、リディアに微笑みかけ、優しく言葉を交わすようになった。共に食事をし、執務の合間には彼女の部屋を訪れる。その変化は屋敷の空気をも温かく和やかなものに変え、侍女たちも心からの笑顔で二人に仕えるようになった。
二人は辺境の地で、静かに、だが確かな愛を育んでいった。時には、暖炉の前で寄り添いながら、前世の断片的な記憶を語り合うこともあった。悲しい記憶も、二人の間では、今を大切にするための糧となった。カイゼルはもう、リディアを守るためだけに戦うのではない。彼女と共に未来を生き、この辺境の地に幸福な家庭を築くために、力を尽くすようになっていた。
それから数年の月日が流れた。
長く厳しい冬が終わり、辺境の地にもようやく柔らかな春の日差しが降り注ぐ季節。雪解け水のせせらぎが聞こえる庭園で、リディアとカイゼルは寄り添い、穏やかに微笑み合っていた。リディアのドレスのウエストラインは、僅かに膨らんでいるように見える。
「前世では、こんな風に穏やかな春を迎えることは叶わなかったけれど……」
リディアがそっと呟くと、カイゼルは優しく彼女の肩を抱き寄せた。
「ああ。だが、今、私たちはここにいる」
彼の声には、揺るぎない確信と深い愛情が満ちていた。
リディアはカイゼルの胸にそっと顔を寄せ、目を閉じる。流れ込んでくるのは、温かくて優しい、確かな幸福感。
(今、私はここにいる。愛するあなたの隣に。時を超えて、ようやく掴んだこの温もりを、もう決して手離したりしない)
降り注ぐ陽光のように、二人の未来は明るく、希望に満ちている。悲劇を乗り越え、真実の愛で結ばれた魂は、この先、幾多の春を共に迎えていくのだろう。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
リディアとカイゼルの、時を超えた愛の物語、楽しんでいただけましたでしょうか?
不器用だけど一途な二人の想いが、少しでもあなたの心に響き、温かい感動をお届けできていたら嬉しいです。
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また次の物語でお会いできるのを楽しみにしています。本当にありがとうございました!