神社
神社が好きな理由はいくつかある。
鳥居をくぐって参道を進みながら、空気が変わったことを感じる瞬間。
日常には無い静けさに、神社に来たんだな、と実感する。
境内の静寂の中で木の葉が擦れる音や鳥の鳴き声がいつもより身近に聴こえるのも好きだ。
手水舎で身を清める一連の行為は、自分自身も聖所の一部になったように感じるから不思議だ。
普段の生活の中に無い行動によって、神様の居る場所に来た実感が増すからかもしれない。
拝殿に吊るされた鈴を鳴らす音や、柏手を打つ音が境内に響くと、身が引き締まる思いがする。
目を閉じて、視界を閉ざした状態で祈る一人だけの静かな時間は、日常から切り離された実感を強くする。
参拝行為そのものだけじゃない。
たまたま参拝した日に七五三やお宮参り、神前式の人たちがいると、幸せをお裾分けしてもらった気持ちになる。
そうした全てが、神社が好きな理由。
神社の中で起こることは、不思議と全てが特別に感じる。
例えば、御神木から差し込む木漏れ日。
境内に敷き詰められた玉砂利を踏む音。
風にそよぐ紙垂。
鳥の鳴き声に、境内や参道で見かける野良猫の姿。
住んでいる家の周囲も自然が溢れている場所だから、鳥の鳴き声を聞くのも野良猫の姿を見るのも日常の一部だ。
そこに神聖さや特別な雰囲気を感じたことは無い。
でもそれが神社という場所だと、見え方や感じ方が変わってしまうのだから不思議だ。
何気なく起こる全てのことが何か意味を持っているように思うのは、特別な体験をしていると信じたいからだろうか。
自分の祈ったことが叶う特別な場所であって欲しい、そんな願望のせいだろうか。
きっとそんな欲目も含めて、神社という特別な場所が形作られているのだろう。
日々平穏に過ごせるように、大切な人たちが幸せであるように、病気をした人が早く治るように、旅行に出た人が無事に戻ってくるように。
他にも、宝くじを買ったら当たるように。
そうした自分の力だけではどうにもならないことを神様に祈る。
私が毎日を幸せに生きていられるのは、毎朝神棚に祈っているから、というだけではない。
自分の現状に不満を持たず、幸せを感じることに目を向けるように心掛けているからでもある。
それでも神様に祈るのは、平穏に過ごせることが心掛けだけで叶うものではないことも良く分かっているから。
災害や不慮の事故、人一人の努力や心掛けで避けられないことはたくさんある。
神様に祈ったからと言って、災難の全てが避けられるわけではないとしても、今を平穏に過ごせている事への感謝を忘れてはいけない。
神社に行き、神様に祈る時間は、日常から少しだけ離れた特別なもの。
現状を顧みて、幸せに生きている事の感謝をする為に必要な時間。
色々と理由はあるけど、結局は神社に行くことそのものが好きなのだ。