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子どもの頃、海が怖かった。


正確に言えば、足が着かない深さで海に漂っていることが怖かった。


足が着かない場所に来る度、自分の足元に何があるのか、どんな光景が広がっているのか、ワクワクするよりも先に怖いと思ったのは、海があまり身近なものでは無かったから、というのもある。


そしてそれ以上に、そこにいる自分がいかにちっぽけな存在なのかを感じることが、とても恐ろしかった。


水面に浮いて砂浜に背を向けると、目に入るのは延々と広がる水平線。

海が広大で、とても大きな存在で、そこに漂う人間一人なんて、砂浜の砂粒と大差ない。

「母なる海」という言葉が頭に浮かんで、生き物はいずれ海に還るんだと、訳もなく思った。


遠くから繰り返しやって来る波が太古から連綿と続いて来たことに思い到ると、自分が遥か遠い時代から続く生命のたった一欠片だと実感させられる。

その中にあっては、人一人の命なんてとてもちっぽけで儚いもの。

それを体感させられるのが、とても孤独で恐ろしい事のように思った。


今はこうして恐ろしさの正体を言語化することが出来るけれど、子どもの頃はただただ自分の存在を簡単に飲み込んでしまいそうな広い海への畏怖だけがあった。


同じ感覚を、宇宙に対しても抱いている。


目に映る星々は何万光年も先にあって、そのうちのいずれかは今という時間にはもう存在していないかもしれない。そんな事実が当たり前にある世界。

そもそも「距離の単位」が光の進む速さだなんて、一体どんな経緯があって決まったのだろう。

そう定義することでしか測れない距離があること。

それが意味するところを考えれば考えるほど、宇宙の広さに圧倒される。


宇宙の誕生から今という時に到るまで、途方もない時間が経っていて、果てが想像もつかないほど広い宇宙の中で、太陽系というほんの一部分を構成する惑星が地球だ。


地球が誕生してから46億年が経つというが、それを知ったところで、実感することも想像することも難しいただの数字でしかない。

その中で数十年、長くても百年を超えるかどうかの寿命しかない人間の一生がどれ程短いものなのかは比べるまでも無い。


脈絡が無いと思われるかもしれないが、この世界には一昔前に義務教育で学んだ時よりもずっと小さな単位の粒子があると、成人してから知った。

その時に思い浮かんだのは、まだ見ぬミクロの世界があるなら、想像し得ないマクロの世界があるかもしれないということ。


そこでは、人間が認知しているこの世界こそが、そうした素粒子に該当するかもしれない。

そしてこの宇宙の外側に、大きな大きな巨人が住んでいるかもしれない。

科学的にはあり得ないことかもしれないけれど、そんなことを想像したことがある。


あまりに途方も無いことを想像するのは、言い表せない恐怖を伴う。

宇宙の果て、そして「大きな大きな巨人」のことを想像した時もそうだった。

もしかしたら、足が着かなくなった見えない海の底に対する恐怖も、根源は同じなのかもしれない。


海や宇宙に対して感じている恐れは、畏怖だけでなく畏敬の念も含まれているだろう。

だとすれば、この感情がこの先も消えることは無い。

それは良いことなのか、生きていくうえで何の意味も無いことなのか、また少しだけ考え込んでしまう。


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