敬意を払う
他者に敬意を持って接することは、口で言うほど簡単ではない。
思うに、敬意を持って接する、ということは、自分の価値基準とは違う考えがあることを知るところから始まる。
例えば違う国で生まれ育った人ならば、その国が歩んできた歴史、そこから形作られてきた文化、習慣が自分とは全く違うわけで、自ずと物事の捉え方や考え方も違ってくる。
それは同じ日本という国の中でだって起こり得ることで、海に近い場所で暮らす人、山間部で暮らす人、都市部で暮らす人では、それぞれ日々目にする光景から日常の過ごし方まで様々なことが違っている。
更にはそれが宗教を背景にしている場合、どれだけの対立と分断を生んできたのかは誰しも良く知る事実だろう。時には同じ宗教であっても宗派の違いで争うくらいだ。信仰の違いを認めて他の宗教を尊重することがいかに難しいかを表しているように思う。
宗教を礎にしている国、もしくは政治的に宗教を利用している国もあって、それが対立に繋がっている場合もあることを考えると、その影響は計り知れない。
古代と呼べる時代から続く宗教対立は、未だにその解決策を見出せずにいるのだから、信じるものの違いが生む相違は根深くて複雑に捩じれている。
今でこそ日本には国教が無く無宗教の人が多いけれど、その日本でも冠婚葬祭を筆頭に文化的な面で宗教は切っても切れない関係にある。初詣やお彼岸など、習慣化された宗教的な行事は多くの日本人にとって身近な物だろう。
また、日本国内には数多くの宗教法人が存在している。その中には、信者の自由を抑制することで縛り付けるカルト的な組織も存在することは社会問題の一つだ。
そうした極端な例でなくとも、信仰を生きる上でのよすがとしている人が少なからずいる。そう考えると、日本であっても宗教との距離、影響力というのは人によって大きさが異なるはずだ。
そうした様々な背景が自分の考え方や認識の仕方に大きな影響を与えていることを普段は意識することが無い。もしくはその機会を得ることが難しいとも言える。
自分の中にある価値基準が変わる機会も少ないし、長い時間を掛けて育まれてきた自身の基盤を否定すること、他者に否定されることは受け入れ難い。
だからこそ、目の前にいる人が自分とは違う背景を持つこと、考え方や物の見方が違っていて当然であることを認めることは大切だ。
自分から見えているのは物事の側面であって、もう一方には見えていない側面があるのかもしれない。そんな風に想像を巡らせることだって容易ではない。
そもそも単純に裏と表のたった二面で表せる事象はどれほどあるだろう。物事には良い面もあれば悪い面もある、そう言うけれど、良い悪いが簡単に割り切れるものならば、諍いはそうそう起こらないはずだ。
自分にとって正しいこと、良いことが、他者にとっても正しくて良いこととは限らない。そのことを頭の片隅に置いておくだけでも、目の前にいる誰かに対する理解を助けてくれるだろう。
海外の人が、例え簡単な挨拶程度の言葉であっても日本語で話してくれると嬉しいと感じる。逆もまた然り。渡航先の簡単な日常の言葉を覚えて行く人は多いはずだ。
きっとそんな些細なことも、相手が違う文化の中で生活していることを認め、相手を知り、敬意を示す一歩に違いない。




