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男は不自然におどおどした様子で、エドから距離を取ろうとした。
――レックスだ。直ぐに分かった。まさか、これが彼の。
「け……今朝まではどうにか獣人の姿を保っていたが、丁度今し方、獣化が切れた。五日しか持たんのだ。……本当に、申し訳ない」
何度も何度も頭を下げる彼は、エドの父トーマスよりも少し若く見えた。
「そ、そんな。謝ることは」
「獣化は……私を、狂わせる。正気に戻るまで二日、人間の姿に戻るまで三日掛かる。狂っている間、私は人間を襲うただのバケモノになる。……ああ、何故だ。獣化が切れて、こんなに悲しくなったことはなかった。私は人間ではない、完全な獣でもない。バケモノになった私を必要としてくれた人間の気持ちに応えることも出来んとは……!!」
見開いたレックスの目から、ボタボタと大粒の涙が落ちていく。
溢れ出る涙を拭きもせず、自分の中から湧き出していく感情をどう処理したら良いのか整理が付いていないようにも見えた。
エドの手から、食料を詰め込んだ紙袋がボトッと落ちた。
無意識に、エドはレックスに駆け寄っていた。そうしてギュッと、背中を丸めるレックスを抱き締めていた。
「大丈夫です、僕はどこにも行きません。大丈夫、大丈夫ですから……!」
――ああ、この人は愛に飢えていたのだと、エドは思った。
迫害され、ひっそりと生きてきて、バケモノとして人間を殺すことを強いられて、自分の罪と存在を呪い続けてきたのだろうと思う。彼は自ら孤独を選んだ。辺境伯が寄越した女性を威嚇したのも、エドを遠ざけようと警告したのも――巻き込まないためだ。本当はとても優しくて、とても寂しがり屋で、愛すべき人なのだ。
「落ち着いてください。大丈夫です。僕はあなただから絵を描きたいと思ったんです。人間でもない、獣でもないあなただから。どっちも、あなたじゃないですか」
ガクンと膝を落とし泣き崩れるレックスは、まるで大きな子どものようで。
「一緒にご飯を食べましょう。美味そうな骨付き肉があったので、多めに買ってきました。気に入ると良いんですが」
エドは、レックスが落ち着くまでしばらくの間、その場から動かなかった。
長く伸びた古城の影が、二人を優しく覆っていた。
*
人間姿のレックスは、彫りの深い、虚ろな目をした冴えない男だった。確かに体格は良い方だが、決して大男というわけでもない。銀の首輪がなければ、彼が獣人レックスだなんて、誰にも分からないだろう。
レックスは獣人の威厳を全部失ったみたいに肩を落として、暖炉の前で少しずつ、エドに自分のことを話し始めた。
「自分が獣人だと知ったのは七つの時だ。それまで絶対に満月の夜は外に出るなと母に教わっていた。言いつけを破って外に出た。とても綺麗な月だった。気を失い、数日後に目が覚めると辺りは動物の死骸でいっぱいだった。恐ろしいバケモノが襲ってきたのだと思ったが、違った。私は血だらけで、獣の肉を貪っていた。――以来、満月の夜には絶対に外に出ないと、そう、誓ったのを覚えている」
「獣人になっている間の記憶はないの?」
「分からない。頭が考えることを拒否してしまう。衝動を抑えるのは、難しい。自分の本性がバケモノだという事実を、私は受け入れたくないのだ」
「けれど辺境伯は、あなたを利用している」
「辺境伯のアーノルドは異常者だ。その父も、祖父も、あの一族は全部異常だった。言うなればアルヒテレスの権力者は皆狂っている。我々は道具ではない。他のヤツらは知らんが、少なくとも私は自分の意思で人間を殺したくはないのだ」
「脅されて、やってるの……?」
「違う。辺境伯家に代々引き継がれた、強制的に獣化させる秘術があるらしい。首輪を通して術が発動すると、満月を見た時と同じ現象が起こる。そのあと目が覚めた時にはもう、私はこの城に戻っていて、辺境伯が寄越したらしい若い女が大抵、私の前で息絶えているのだ。……私が殺したのか、自分で死んだのかも分からない。それが幾度となく繰り返される。どう……すべきか、分からぬまま何十年も経ってしまった。いつの間にか、私はアルヒテレス最凶の獣人レックスと呼ばれるようになっていた」
「逃げようと、思ったことは?」
「何度も、数え切れないくらい。けれど無理だ。私が獣化を拒めば、辺境伯領とその後ろにある王国を危険に晒すことになる。私は、人間達が苦しむのを見たくない。国防の要としての役割を与えられている限り、私は絶対に逃げることを許されないのだ」




