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夢中で色を塗り続けて、気が付くと日が傾いている。
背後で様子を見ていたレックスの存在にエドが気が付いたのは、絵が完成したと一息吐いた時だった。
「終わったか」
「はい、何とか」
見せてくれと、レックスは夕陽の当たるところまでスケッチブックを持っていって、エドの絵をじっくりと眺めていた。しばらく無言で絵を見続けて、それからゆっくりとスケッチブックをエドに返した。
「絵のことはサッパリ分からんが、貴様には私がそう見えていた、ということか」
「はい。……見えていたままの、あなたです」
するとレックスは、またとても悲しそうな顔をして、「暗くなってきた。飯でも食おう」と言うのだった。
*
獣人レックスとの時間は、あまりに緩やかだった。
彼はエドに殆ど干渉しなかったし、勝手に市場に買い出しに行っても、どんなに城中漁っても、まじまじと観察するように絵を描き続けても、嫌な顔一つしなかった。
「辺境伯の使用人が次に来るのはいつ頃ですか? 僕のことがバレたら大変なことになったりは」
「ないな。彼らは私を恐れて中には入らない。城門の内側に、物資を入れた木箱を置いて帰るのだ」
やたらと新しめの木箱が置いてあったのは、どうもそういうことだったらしい。
「喰われたくないのだ、私に」
「喰うって、そんな」
「喰うさ。今までだって数え切れないくらいの人間を喰ったのだ。貴様のことも喰ってしまうかも知れない」
レックスの目は、暗く沈んでいる。
冗談でしょうとエドは笑ったが、レックスはゆっくりと首を横に振った。
「月が満ちると、私は私でなくなる。それとは別に、辺境伯が私を必要とした時にも、同じことが起こる。――月の満ち欠けは予測が付くが、辺境伯のそれは一切の予測が付かない。一度狂えばしばらく元には戻れないのだ。その時はどうか逃げてくれ」
「いやだな。わざと怖がらせてるんですか」
「わざとじゃない。私は本当に、人間を襲うただのバケモノになる。……傷付けたくないのだ。だがそれを伝える手段も、心も、全部失う。貴様のことも、分からなくなってしまうだろう」
時折レックスは、世界中の不幸を全部背負ったような顔をした。
そうして身体を小さく縮こめて、何かに懺悔するように、その場に蹲ってしまうのだった。
*
二、三日写生旅行にと家を出たのに、もうその期限を過ぎてしまった。古城での暮らしはあまり便利ではなかったが、父や弟、弟子達の顔色を見てばかりの生活よりは気が楽だった。
数日のつもりで持ち出していた金と絵の具が不足してきたこともあって、エドは諦めてハウエルの家へと向かった。
作業場に入り絵の具の棚を漁っていると、父の弟子ダレンに見つかった。
「最近姿を見せないと思ったら、コソコソと何をしてるんだい」
「え、絵の具の補充だよ。写生で随分絵の具を使ってしまったから」
「本当に絵なんか描いているのか? 市場で妙な買い物をしてるところ、見掛けたんだが」
ダレンは父の指導をしっかり受け、ハウエルの家が望む重厚な絵を描くことの出来る、才能ある画家だった。自信家で実力も伴っている。デッサンとスケッチではエドの方が上でも、絵の完成度を考えれば、ダレンの方が評価されているように思えた。
「ちょ、ちょっと……し、知り合いの家を間借りしてて。もうしばらくそっちに居るからって、父さん達にも伝えて貰えると……」
嘘ではないが、胸がチクチク痛む。
「逃げるのか」
と、ダレン。
「ハウエルの家から逃げるのか、エド」
何も言えなかった。
背中を丸めて作業場から出ようとするエドに、ダレンはボソッと声を掛けた。
「リッツエルと戦争になりそうだって話、町で聞いた。市場にも兵士が彷徨いている。お前がそっち方面に行くのが見えた。巻き込まれんなよ」
エドは立ち止まってダレンに頭を下げた。ダレンは小さく溜息を吐いて、エドに軽く手を振っていた。
*
ダレンの言葉通り、市場には兵士の姿が目立つようになってきていた。
以前レックスがリッツエルの傭兵団を一掃したこともあって、相手はより強力なバケモノを投入する予定だという。単眼の巨人――どこかの国から分捕ったというそのバケモノは、レックス程の凶暴さはないものの、見上げる程の巨体らしい。
レックスが危ない。
戦争が始まれば辺境伯はレックスを必要とするだろう。早めに教えなければ。そして出来るならば、どうにかレックスを争いから遠ざけたい――
その日の夕飯を買い込んで大急ぎで古城に戻ると、そこに獣人の姿はなかった。あんな巨体、見逃すわけがない。城壁を出れば首が飛ぶと言っていたのに、一体どこに。
走り回っていると「どうした?」と聞き慣れた声。
「レックス!」
振り向いた先に居たのは、太い銀の首輪をした男。レックスの体毛と同じ色のボサボサ髪、無精髭に金色の目。ダボダボのシャツにダボダボのズボンを穿いている。大きな靴にも見覚えがある。
「す、すまない、エド。獣化が切れてしまった。あんなに気に入ってくれたのに、申し訳ない」




