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丸い背中、太い手足。動きづらそうなのにぴっちりした服を着ているのは、何か事情があるからだろうか。
朝露がまだ残っていて、地面は濡れていた。エドは崩れた建物の基礎部分の石に腰掛けて、必死に鉛筆を走らせた。
「本当に、絵を描くのが好きなのだな」
レックスは時折手を止めて、エドに話し掛けてくる。
「好きです。描かずにはいられないんです」
徐々に日が昇り、周囲が色を取り戻してきた頃、レックスは草刈りをやめた。
調理場に行き、竈に火を付けて簡単なスープを作る。それをエドにも分けてくれて、互いに持っていたパンを囓って軽い朝食。ベーコンの旨味が染みたスープに浸して食べるパンは格別で、二人、自然に顔が綻んだ。
「どれくらい城で過ごしてるんです? 五年、十年……」
「どうだったかな。ここに来る前は母と二人、森の中でつましく暮らしていて――前の獣人が死んだとかで、当時の辺境伯が私を見つけたのが、十五、六の頃だったか。それからもうずっとここに居る」
「お母さんは――」
レックスは首を横に振った。
「母は人間との合いの子で、父も獣人だったらしいが、見たことはない。辺境伯に飼われていた前の獣人が父だったかも知れないが、それだって分からずじまいだ。どうせ滅びゆく種族だ。静かに最期の時間を過ごさせて欲しかったが、人間は貪欲で、私を自由にしてくれない。愚かなことはやめるべきだと私が言ったところで、獣人の言葉など人間には響かないことは、この何十年かで何度も思い知らされた」
「僕の知る獣人は、獰猛で敵味方関係なく皆殺しにするくらい残酷だって……」
「人間は確かに嫌いだが、襲いたくて襲っていたわけじゃない。これでも少しは人間の血が混じってるんだ。同胞を殺すなんて残酷なこと、自分の意思ではとても」
「だったらどうして」
どうしてと言われて、レックスは銀の首輪を擦り始めた。
「私は辺境伯の飼い犬だ。奴隷だ。私には自由がないのだ」
金の目が翳って見える。
エドはそれ以上何も言えなくなって、出されたスープとパンを黙々と口に運んだ。
*
古城の二階、庭が見渡せる部屋を陣取って、エドはそこを作業場にすることにした。
昨晩寝ていた部屋はその隣、とにもかくにもカビ臭く、掃除に時間が掛かった。持ってきたタオルは別の用途に使うつもりだったが、どうにも出来ず雑巾になった。何度も水を取り替えては壁や棚を拭き上げて、床も丁寧に磨き上げた。
掃除も洗濯も得意だった。絵の具やオイルで汚れた作業場を清潔に保つことも仕事の一つだったから苦ではない。掃除をしているうちに、あっちもこっちも気になって、こうなったら徹底的に城中綺麗にしてやろうという気持ちさえ湧き上がってくる。
掃除用具と寝具が足りなくて、午後から市場まで降りて食料と共に少し買い足した。直ぐに古城まで戻り、また黙々と掃除を始める。
「絵の次は掃除か」
レックスにはバカにされたが、快適な生活のためには譲れなかった。
窓という窓を全開にして、森の空気を古城中に巡らした。壊れた場所を直すのに道具が必要だと分かれば、それをメモしてまた買い出しに行けば良いと思った。
こんなところにたったひとり、誰にも知られることなく過ごしていた獣人レックスの数十年を思えばこそ、どうにか力になれないかと考えてしまう。
奪われるものを全部奪われ、それでも必死に生き延びていた彼を、自分が癒やせるのなら何だってする。してやりたい。
それは絵を描くことに囚われて、宮廷画家ハウエルの長男としての期待に押し潰されそうだった彼にとって、初めての感覚で――彼にとって獣人レックスが如何に尊大で、崇高な存在なのか、それはきっと、誰にも分からない。
*
明るいうちに色を塗ろうと、エドは昨日レックスがもたれていた壁の前にイーゼルを置いた。城の中から空いていた木箱を幾つか持ってきて、その上に絵の具とパレット、バケツを用意する。固形絵の具を水で溶き、パレットの上で少しずつ絵の具を混ぜながら色を塗っていく。ツンとする絵の具独特の臭いが、空気に溶けていく。
ハウエルの家では油絵を主に描いていたが、本当は水彩が好きだった。エドは水彩画の透明で淡い色使いが気に入っていた。油絵主流のハウエルの家では、水彩は下絵との認識が強いようだが、水彩独特の滲みは決して油絵には劣らないと思っていた。
前日に描いた獣人レックスのスケッチに色を塗る。色の薄いところから塗り始め、少しずつ濃い色を置く。
水彩画の色塗りは時間との勝負になる。しっかりと濡れている状態でなければ色は滲まないから、大急ぎで塗っていく。外壁を塗り、獣人を塗り、蔦や地面も、立体的になるように気を付けて。時折視界を横切る獣人の姿をチラチラと確認しては、色合いを確かめ、塗り進めて。色が少しずつ付いていく度に、スケッチブックの中の獣人に存在感が増していった。
陽だまりの中、ふと気を緩めた獣人の寂しげな顔。それが表現したくて、彼がとても愛おしくて、エドは筆を走らせ続けた。




