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エドは答えなかった。
「いつの間にこんなもの」
「どいてください。あとちょっとなので」
獣人がもたれ掛かっていた石壁の僅かな凹凸がどうしても描きたかった。恐らく絵の出来映えを左右するものではなかったのだが、今そこに獣人が居たのだという現実味を出すには必要な凹凸だと彼は思っていた。だから細かい箇所に拘って、何本か、何十本か線を引いた。
手を止め、少し顔を上げて、スケッチブックを持った左手をグンと伸ばして全体を確認する。元の景色と自分の絵、見比べて僅かな歪みを見つけては濃い線を引き直し、それを何度か繰り返して。
「……出来た」
気が抜けた。
ようやく大きく息をして、それからふぅと額の汗を袖で拭う。
立ったまま描き続けていたのを思いだした途端、足がガクンと痛くなって、しまった、また集中しすぎたと思ったところに「上手いものだな」と、知らぬ声。
慌てて顔を上げると、目の前に毛むくじゃらの狼男が立っている。
「う、うわぁっ! いつの間に!!」
今更のようにひっくり返って、エドは地面に尻を付いた。
大きい。エドよりもずっとずっと大きくて、まるで自分が小人になってしまったかのような錯覚に陥るくらい、獣人は巨大で。
「絵を描いていたクセに、驚くのか。妙なヤツめ」
――急に、震えが来た。
「ば、ばばば、ばけ……」
全身の穴という穴から変な汁がはみ出してしまうくらいには怯えていた。
どうしたらいい? 殺されるのだろうか。描きたいという衝動に勝てずに、一心不乱に描いてしまった。
そんなエドを尻目に、獣人レックスはフンと鼻を鳴らし、エドの左手から零れ落ちたスケッチブックをひょいと拾い上げた。
「アッ!!」
取り戻そうとしたのに、獣人はエドの頭の遙か上までスケッチブックを持ち上げて、彼の絵をまじまじと見つめている。
「か、返してください! お願いです、勝手に描いたことは謝りますから!!」
必死に立ち上がってスケッチブックに手を伸ばすが、跳んでも跳ねても手が届かない。
「上手いではないか」
言いながら獣人は前のページを捲ろうと――
「返してください!!」
エドは咄嗟に獣人に掴み掛かり、無理矢理スケッチブックを分捕った。
「だ、誰かに見せるために描いていたんじゃないんです。ぼぼ僕は、ただ絵が描きたくて」
「ただ絵が描きたくて、わざわざこんな古城まで足を運び、私の姿を描いていたと。随分な物好きだ」
分捕られたことに怒るでもなく、描かれたことを嫌がるでもなく、獣人レックスは寧ろ口元を緩ませているようにも見えた。
「それにしても貴様は運が良い。あと数日早ければ、貴様は私が喰い殺していたかも知れない。それに……良いものを見せて貰った。そんなに獣人の姿が気になるなら、好きにすれば良い」
「す、好きにって……」
「あと二日」
「二日?」
「それ以降は貴様の望みには答えられない」
獣人はフフッと笑い、そのまま城の中へと消えていった。
エドはスケッチブックを抱えたまま、彼の後ろ姿をぼんやりと見つめていた。
*
山を下り、町まで戻る。住宅街をとぼとぼ歩いて自宅へ向かうと「おかえりなさいませ」と、使用人の老人の声。ただいまと片手を上げて自室へ戻り、エドはスケッチブックを作業机の上に置いた。
パラパラとページを捲ると、それまで描き溜めた絵がチラチラと目に映った。スケッチのあとはなるべく色を塗るようにしていた。普段から固形絵の具を持ち歩いていて、その場でサッと色を塗るのだが、今回は場所の確認で終わらせるつもりだったから、絵の具は持たなかったのだ。持っていけば良かった。どうせ、我慢出来ずに絵を描いてしまうのだから。
獣人レックスのスケッチに目を落とし、古城の光景を思い浮かべる。色を塗ってしまおうか、それとも。
「――あと二日は、好きにしていいって言った。だったら」
エドは大きめの鞄を取り出して、中に荷物を詰め始めた。着替えや絵の具、筆記具、今使っているのと新品のスケッチブック数冊、食料も市場で買い込まなくては。荷物を背負って部屋を出ると、さっきの使用人がエドに声を掛けてきた。
「エド様、またお出かけですか?」
「あ、うん。二、三日、写生旅行に……」
はぐらかすように零したところに、
「どこへ行くだって?」
野太い声がして、エドはビクッと肩を揺らした。視線の先に居たのは、険しい顔をした、父のトーマス・ジャン・ハウエルだった。
「どこをほっつき歩いていた。こっちはお前の尻拭いで散々だったんだ。強い絵を描けと言ったのに、また色の薄い絵を描きおって」
数日前に納品した肖像画の件だ。エドはゴクリと唾を飲み込んだ。
「だ……男爵に、きちんと確認を取りながら描いたんです。だから」
「黙れエド! 見たまんま描いてどうする。脚色しろ。強く、格式高く描かねば肖像画の意味がない。依頼人が納得してこそ、対価をいただけるのだ。肖像画は趣味の絵とは違う。仕事だ。金を貰うからには、依頼人の意向に沿う絵を描かねばならんと言ったのを忘れたのか……?!」




