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エドは、人間姿のレックスの絵を少しずつ描き始めた。
リッツエルとの戦争の話は、言うに言えなくなった。
ただ今は、僅かな平穏をレックスに味わって貰いたいと思っていた。
朝から夜暗くなるまでずっと、しつこいくらいにレックスのスケッチを続けた。人間の顔を描くのは得意ではなかったが、レックスの絵は不思議と描くことが出来た。
どんな格好をしていても、どんな角度でも良かった。気の抜けたような顔、少し口角を上げた顔、手の甲に浮かぶ血管や、大きめのシャツがだらしなくヨレているところ、何かを思って立ち尽くした後ろ姿、遠くを見つめる目、笑った時にチラリと見える犬歯、底のすり減った靴、まともに剃ったことのない無精髭に手を当てて、泣きそうな顔をしているところ。
緩くくねった肩まで伸びた髪が、首輪より随分細くなった首に垂れている。鈍く光る銀の首輪は、レックスの頭蓋骨を潜らせるには小さくて、工具を使って壊せるかどうか……そんなことまで気になってくる。
獣化が解けても眠りが浅いらしく、レックスはいつもエドより早く起きる。朝一番に城内の花の手入れをし、草を刈る。顔を洗ったり身だしなみを整えるよりも、庭仕事を優先しているように見えた。
「毎晩、追われる夢を見る」と、レックスは言った。
「いっそのこと、心を全部失って、単なるバケモノになった方が楽なのだろう」
庭の花々は、元々城内のあちこちに自生していたものらしい。
「死んだ人間を埋めて、その上に花を植えた。死者は弔うものだと、母に教わった。誰も踏まないよう、綺麗な花を植えておくのが良いと思ったのだ」
城内の至る所に植えられていた名も知らぬ花々は、迷路のように複雑に入り組んだ廃墟を美しく彩っている。
*
何事もなく数日が過ぎた。
古城に持ち込んでいたスケッチブックはもう、残り少なくなってきていた。
飽きることなく絵を描き続けるエドと、普段通りの暮らしを続けるレックス。共に食事を取り、他愛ない話をして、一日が終わっていく。
「世間知らずの若造の戯言だと思って聞いてくれたら嬉しいんですが」
薪を割っていたレックスは、エドの声に手を止めた。
「もし……首輪の呪縛がなくなって、自由に城外へ出られるようになったら、一緒に旅をしませんか?」
「……は? 何を言い出す。変なヤツだ」
エドの妙な台詞に、レックスはプッと吹き出した。
「かく言う僕も、父に写生旅行であちこち連れてって貰ったくらいで、行ったことのない場所の方がものすごく多いんですけど、レックスにも色んな景色を見せたくて」
「そんなもの、興味は」
「満月にだけ気を付ければいいのなら、旅も出来ちゃうかも知れないでしょう? 美味しいものを食べたり、見たことのない花を愛でたり……何でも良いんです。その日が来るまで、僕はあなたの隣で細々と描いた絵を売って過ごしたいと思っています。いつ自分が自分でなくなるかも知れない恐怖に怯えながら、殺戮兵器のような扱いを受けてきたあなたを、どうにかして、解放してあげたいんです」
*
町へ行く度、軍靴の音が大きくなる。
通りの人々の顔はどんどん険しくなり、聞こえてくる噂話も不穏なものばかりになってくる。
隣国リッツエルの王が辺境伯に宣戦布告とも取れる書簡を送ったのだという話。領土問題解決のため話し合いを提案しても、一切耳を貸さない辺境伯に直談判するため、リッツエルは使節団を向かわせた。しかし辺境伯はこれを敵と見做し、獣人レックスに襲わせたのだという。使節団は全滅。鼻高々に勝利を宣言した辺境伯にリッツエル王は憤慨し、本格的にウェザレル辺境伯領を侵攻する準備を整えたというものだ。
国境に近い町からはどんどん人が流出している。人々は怯え、治安もどんどん悪くなってきていた。
様変わりした町の様子に戦々恐々としながら、エドは古城に向かった。
山道を歩いていると、草が所々なぎ倒され、真新しい轍が出来ていることに気が付いた。古城に続く道に轍が続いている。
エドが大慌てで戻っていくと、城内に荷馬車が乗り入れている。ぐちゃぐちゃになった花々を目にし、エドはうっと息を呑んだ。
「――ぐあぁぁあぁあああ……っ!!!!」
古城の方から叫び声。レックスだ。
血相を変えて走っていくと、古城付近に武装した兵士が三人、そして軍服を着た貴族の男。足元で悶えているレックスの姿が見える。首輪を両手で掴み、苦しそうに膝を付いて地鳴りのような声を響かせた彼の身体は、通常時よりも僅かに肥大化していた。
「獣化が始まる前に檻に入れろ」
貴族の男が冷たく言い放つと、兵士が二人、苦しそうに身体を丸めるレックスを無理矢理その場に立ち上がらせた。
「がああぁっ!!」
レックスは身体を捩って兵士達を振り払おうと藻掻き始めた。
目の色が違う。暗く沈んでいた金色が、今度は爛々と光って見える。興奮し、全身に血管を浮かび上がらせ、膨張した筋肉が彼の輪郭をどんどん変えていくのが分かる。
「に……げろ、エド……!!」




