1 サボテン
私の会社員人生は、ちょうど十年で終わった。
いわゆる、ブラック企業と呼ばれるところだった。
同期入社十二人のうち、三人がひと月もたずに辞めていったのを皮切りに、同期の数は見る間に減っていき、二年経つ頃には残ったのは私と加畑の二人だけになっていた。
朝は始業時間の一時間前には仕事を始めていたし、会社を出るのはたいてい終電間際だった。
それでも家に帰れればまだましな方で、仕事が終わらなければそのまま会社に泊まり込むこともしょっちゅうだった。
どう考えても仕事の量と人員の数が合っていなかったのだと、今なら分かるのだが、その当時はただただ自分の力不足だと思っていたし、上司からもそう言われていた。
仕事が終わらないのであれば、会社の命令ではなくお前の自己都合で残れ、と上司に言われたのは、要は残業手当は出さないというだけの意味だ。
自分が有能だとは思わないが、特別に無能だったとも思わない。
なぜなら、私以外の多くの社員もそんな風だったからだ。
だから、いつも元気だった先輩が急に無口になったと思ったらその数日後に彼女の席が空になっていたり、やる気に満ち溢れていた新人が、その数か月後には辞める直前の先輩と同じ目をしていたり、そんなことは日常茶飯事だった。
みんなから仕事ができると思われていた先輩は、実はただ単に人に押し付けるのが上手いだけの人で、結局、仕事を押し付けられていた彼の後輩が自殺して、それが露呈した。
会社は、売上的にも、人間関係的にも、いつもずっと余裕がなくて、私たちは嵐に翻弄されている小さな船の乗組員みたいだった。
海上の嵐ならばいつかは去るのだろうけれど、会社を包む嵐はいつになっても去らなかった。
だからみんな、毎日毎日必死に限界まで頑張って、そうして力尽きると波にさらわれるみたいに姿を消していった。
九年目に、同期の最後の一人、加畑が辞めた。
部署が違うせいで入社以来ほとんど会っていなかったけれど、私のほかにまだ辞めずに頑張っている同期がいるというのは、心のどこかで支えになっていた。
だから彼が辞めるらしいと聞いたときは、スマホのデータの底からすっかり埋もれていた加畑の連絡先を探し出した。
同期二人だけのささやかな送別会は午後七時からの予定だったけど、やっぱり私の仕事のせいで八時半までずれ込んだ。
それでも加畑は待っていてくれた。
何年振りかに会った加畑は、すごく太っていた。身体の中にエネルギーを感じない、不健康な太り方だった。
辞めるに至った愚痴を聞くつもりでいたけれど、さっぱりした顔の加畑はかえって私の愚痴ばかり聞いてくれた。
「まあ、病気になったんでね。今までみたいに働けないんで、田舎に帰るよ」
加畑はさばさばと言った。
「実は俺、曲を作りたいんだよね」
「曲?」
加畑は人生で一曲でいいので、これが俺の曲だ、と胸を張って言えるような曲を作りたいのだという。
「これからは時間ができるから、やってみるよ」
加畑にそんな夢があったことも、学生時代にバンドマンだったことも、私は何一つ知らなかった。
「先週末にこっちの部屋を引き払って、荷物を実家に運んだんだけどさ」
「うん」
「就職するときに買ったサボテンの鉢植えが、そのまんまベランダに残っててさ」
それは、素焼きの鉢に入った小さなサボテンだという。
加畑によれば、彼の住んでいたアパートのベランダは、隣に立つ大きなマンションのせいで日当たりが全くなかった。だが、ほとんど深夜に帰って寝るだけだったから、そんなことを気にしたこともなかった。
サボテンは買ったまま存在すら忘れてしまって、水をあげた記憶もない。
そのせいだろう。鉢の中で乾ききった土から顔を出していたサボテンは、購入時よりも二回りも小さくしぼんで、すっかり枯れてしまっているようにしか見えなかった。
だから荷物整理の際に捨ててしまおうと思ったのだが、手伝いに来た母に止められたのだという。
母は加畑に、
「サボテンの生命力を舐めちゃいけない」
と言ったのだそうだ。
「だから捨てないで実家に持ち帰ったんだけどさ。よく考えたらこの九年間、俺もサボテンみたいなもんだったな」
加畑はそう言って笑った。
「給料も上がらず、休みももらえず。ただただ毎日を乗り越えることに必死で」
それはまるで水も日差しももらえなかったサボテンのようだった、と。
「山田も無理するなよ」
別れ際、加畑はそう言って私に手を振った。
「俺のサボテンと違って、お前は自分で生きる場所を選べるんだからさ」
それからちょうど一年後、加畑から一通のメールが来た。
メールには写真が一枚添付されていた。
北陸の田舎の、広い大きな庭を撮ったものだ。
きっと、普段はとても日当たりがいいのだろう。
でも写真の中の空は暗く、雨が降っていた。
庭の片隅に、小さなサボテンの鉢が置かれていた。
メールには、ただひと言。
『花が咲いたよ』
くすんだ緑色のサボテンにちょこんと一輪、鮮やかなピンク色の花が開いていた。
確かにサボテンの生命力を舐めてはいけなかった。
もっといい天気の日に撮ってやれよ、と私は苦笑した。
それからひと月後に、私は会社に辞表を提出した。
最後の出勤の日。
引継ぎを終えて会社を出ると、雨が降っていた。
私は傘を差さずに駅まで歩いた。
不思議な解放感があった。
***
十年間日を浴びなかったサボテンの素焼きの鉢に降り注ぐ雨