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もっと優しい神様だったら良かったのにね

作者: 村崎羯諦

 私が病室のベッドで目を覚まし、机の上の花を入れ替えていたお母さんの名前を呼んだ時、私の方を振り返ったお母さんは驚きの表情を浮かべた。それからお母さんは、「神様は本当にいたんだ」と言って、その場で泣き崩れた。


 私は、泣き崩れるお母さんの姿を見て、何が何だか訳がわからなかった。でも、お母さんの姿を見続けているうちに、まるで洪水のように今までの記憶が蘇ってきた。優しいお父さん、お母さんとの一家団欒の記憶。中学校での毎日。そして、それから風に弾き飛ばされた帽子を追いかけ、道路に飛び出した私に鳴らされた、トラックのクラクション。


 私が目を覚ましたことを聞きつけた主治医が慌てて部屋に駆け込んでくる。登坂と名乗った先生は、私にいくつか質問をした後、交通事故に遭ってから約一年もの間ずっと意識を取り戻さなかったということを教えてくれる。私は自分の身体を確認した。交通事故にあったとは思えないほどに身体は綺麗だったけれど、ふと自分の顔を手で触れると、自分の頭が包帯でぐるぐる巻きにされていることに気がつく。


「随分長い間眠っていたから、きっと今は不思議な感覚でいると思う。特に、成長期ということもあって眠ってる間に身体が変わってしまっているから、戸惑うことも多いかもしれない。まだ中学生の美香ちゃんには辛いかもしれないけど、リハビリを頑張れば、きっと元の生活に戻れるはずだよ」


 先生が私に手を伸ばし、私はその手を握った。そして、交通事故の記憶がまざまざと蘇った私の頭に『生きている』という言葉が思い浮かぶ。私は先生の手を強く握った。自分が今、生きているということを確かめるように。


 その日から辛いリハビリの日々が始まった。久しぶりに動かした私の身体はまるで私の身体じゃないみたいに言うことを聞いてくれなかった。交通事故に遭う前までは自然にできていた一つ一つの動きが全然できなくて、何度も何度も投げ出しそうになった。それでも、優しいお母さんとお父さん、それから登坂先生が私の支えになってくれた。みんなのためにも一日も早く元の生活に戻る。私は心の中で何度も何度も自分にそう言い聞かせ、リハビリに耐え続けた。


「ねえ、美香。覚えてる? あなたが小学生の時、家族旅行先のグアムで迷子になった話。私とお父さんが必死になって、美香を探し回ったのよ」


 病室ではよく、お母さんが他愛もない昔話を振ってきた。私はその度に覚えてるよと笑って、二人でその昔話に花を咲かせた。初めのうちはなんで脈略もなくそんな話をしてくるんだろうとも思ったけど、ひょっとしたらそれは、お母さんが私が交通事故に遭う前の生活を懐かしんでいるからかもしれない。そう思った時、私の意志はもっと強くなった。


 そして、一年半年ぶりに自宅へ一時帰宅が許された私は、玄関を開け、自分の家の匂いを嗅いだ時、懐かしさのあまりその場で泣き崩れてしまった。玄関に飾ってあった置物も、お気に入りのスニーカーも、全てが私の思い出のままだった。生きている。その言葉を噛み締めるたびに、涙が溢れ出た。お父さんとお母さんが、私を後ろから優しく抱きしめてくれる。私の思い出が詰まったこの家の玄関で、私は改めてここに帰ってきたんだと強く感じることができた。


 それから私はリハビリと一時帰宅を繰り返しながら、少しずつ少しずつ以前の生活を取り戻していった。だけど、全てが以前と同じようになるわけではなく、それがまた私の心を妙にざわつかせた。例えば、私の食事の好み。交通事故に遭う前、私の一番の好物は、お母さんが作ってくれる煮物料理だった。だけど、登坂先生の許可をもらって、お母さんが病室に持ってきてくれた煮っ転がしを食べた時、私は一口、二口、口に運んだ後、ゆっくりと箸をおいた。食欲がないの? お母さんが私の方を見て、心配そうに聞いてくる。


「そういうわけじゃないんだけど……。あんなに好きだったのに、何だか口に合わなくて」


 私も自分自身の感覚に戸惑いながら答える。だけど、そこで登坂先生は落ち着いた表情で、大きく頭を打ったことで、交通事故の後に好みが変わったりすることがあるらしいということを話してくれた。


「高次機能障害という病名なんだけど、少なくとも私が綿密に検査をした限りでは、そこまで大きな損傷はなかったんだ。重症なケースだと、人格そのものが変わってしまったり、記憶力が急になくなったりすることもある。だけど、美香ちゃんの場合はそこまではいかなくて、起きるとしても、些細なレベルだ。だから、ひょっとしたら他にも以前と違うなということがひょっとしたらあるかもしれないけど、そこまで心配する必要はないんだよ」


 登坂先生が話してくれた通り、結局、私やお母さんが不安に懸念していたようなことは起こらなかった。以前と変わったことと言えば、好物が変わったこと、アレルギーが増えたこと、そして以前よりもちょっとだけ体力や運動神経が悪くなってしまったことくらい。そうした以前とは違う自分に戸惑うことはあったけれど、その度に私は、それでも生きているんだと自分に言い聞かせるようにした。


 私は少しずつ新しい自分を受け入れるようになっていった。もちろん交通事故に合わなければ一番だっただろうけど、交通事故にあったことが私の人生にとって意味があったんだと思うようにもなった。こうして生きていること、大好きなお父さんとお母さんの笑顔を見られること、そして二人の子供でいられること。その全てに私は感謝した。せっかく助かったこの命を、一生大事にしよう。リハビリを終え、ずっと私のお世話をしてくれた登坂先生とお別れした後、私は心の中で強く誓った。退院した日の空は、青く澄んだ秋空で、これからの私の人生を祝福してくれてるみたいだった。


 そして月日が流れ、私が交通事故に遭ってから、ちょうど三年が経った。幸せを噛み締める日々の中、突然私の元にニュースが飛び込んできた。それは、私の担当医だった登坂先生が、法律で罰則されている、記憶の書き換えという医療倫理違反行為で逮捕されたというニュースだった。






*****






『登坂医師が関わったとされる医療倫理法違反行為は、現時点で18件ほど確認されています。登坂医師は記憶に関する研究の世界的な権威であり、大学院時代には、人の記憶を一種の信号の組み合わせとして外部に保存する技術の発明に関わっていました。さらに、博士論文では、外部に保存した記憶を、もう一度脳へ戻すという実証実験をマウスを使って行っており、その業績により昨今ではノーベル医学賞の最有力候補とされ───────』


 ニュースの途中。いつの間にか私の後ろに立っていたお母さんが無言のままテレビの電源を切った。私は何も言わずに、お母さんの方へ振り向いた。確かに先生が逮捕されたのは悲しいけど、美香には関係ないことだから。お母さんは少しだけ震えた声で私にそう語りかける。


 そうだね。私がそう返すと、お母さんは少しだけ拍子抜けしたような、だけどホッとしたような表情を浮かべる。ごめんね。私は聞き分けの良い子のふりをしながら、心の中でお母さんに謝る。それから、私は喉元まで出かかっていた質問を、ぐっと飲み込んだ。


 ねえ、私のこの身体と頭は、何ていう名前の女の子のもので、お父さんとお母さんはどれだけのお金を払ってくれたの。


 私は両親に隠れて、登坂先生の医療倫理違反行為のことを調べ始めた。そして、このスキャンダルをスクープし、今なお先陣に立って、取材を行っているとある週刊誌の記者の存在を知った。私はその人に連絡をとり、自分が今世間を騒がせているニュースの関係者だと告げると、彼の人は喜んで私に会ってくれた。


「君が考えている通りだと僕も思うよ。つまりは、岸本美香という女の子は交通事故ですでに死んでしまったんだろう。だけど、死ぬ前に、岸本美香の記憶だけは登坂医師の技術で外部に保存することができていた。そして、たまたま同じ病院にいた菊池彩乃という女の子の記憶を、岸本美香の記憶で上書きして、顔も君そっくりに整形した。そして、それが今の君だってことをね」


 人間の人格や考え方を形成しているのは、その人の記憶。つまり、もし記憶をそのまま誰かに引き継がせることができるのであれば、それはその人間の生き直しになる。入院中、登坂医師がそんな言葉を語っていたことを思い出す。だから、記者の人に、自分が推測していたことを話し、彼からもその可能性が高いという話を聞いた時も、私は全然驚かなかった。


 細身で、好奇心で目をギラギラさせた週刊誌の記者は、取材協力の見返りに現在判明している事実を私に語ってくれた。最愛の娘を亡くした私のお父さんとお母さんが、登坂医師に縋りつき、途方もないお金を払って、手術を依頼したこと。ちょうどそのタイミングで、菊池彩乃という、私と同じ年齢の女の子が病気で入院していたこと。菊池彩乃の病気は手術で治るものではあったけれど、救いようのないクズ人間だった彼女の両親が、その手術代を払おうとしなかったこと。などなど。


「君が目覚めた時の話はとても興味深いね。頭を包帯でぐるぐる巻きにされていたって教えてくれたけど、そのレベルの交通事故で、身体はまったくの無傷だなんてありえないよね。包帯が巻かれていたのはきっと、交通事故の傷を治すためじゃなくて、顔を君に似せるために整形した後だったからだよ。それにリハビリの時、自分の身体じゃないみたいって話してくれたね。でも、それは当然だよね。だって、君の身体は岸本美香の身体ではなくて、菊池彩乃の身体だったんだから」


 私は記者の話を聞きながら、色んなことを思い出していた。辛いリハビリのこと。病室で、お母さんはやたらと思い出話をしてきたこと。あれだけ有名な医者が、つきっきりで私の診療をしてくれていたこと。交通事故の以前と以後での、ちょっとした変化のこと。


 それにしても、全く動揺しないね。ひとしきり喋り倒した後、記者はコーヒーを啜りながら、私にそう言った。記者から聞いた話は私が想像していたよりも何倍も壮絶な話ではあったけれど、不思議と気持ちは落ち着いていた。私は適当に相槌を打った後で、菊池彩乃に関する資料があればもらえないかとお願いしてみた。記者は君もジャーナリストの才能があるよと笑いながら、事前に準備してくれていた資料をこっそり渡してくれた。


 家に帰り、私は自分の部屋にこもって、資料に目を通した。小学校の卒業アルバムの言葉であったり、交友関係のあった友達の証言。さらに、彼女は実の両親から虐待をしばしば受けていたらしく、それに関する児童相談所や近隣住民に対するインタビュー。それを読むことで、菊池彩乃の人生が頭の中で浮かび上がってくるようだった。


 そして、その資料の後半にあったのは、彼女がつけていた日記だった。記者の話だと、彼は実の両親に対して取材をしたらしく、袖の下を握らせることで、彼女に関するありとあらゆるものを手に入れることができたらしい。私はその日記をパラパラとめくり、中を確認する。女の子らしい丸文字でかかれているのは取り止めもない日常のことだったけれど、時々、自分の両親からされたひどいことも突然書かれていたりした。私はそのまま彼女の日記を読み進める。そして、ふと日記の一文に目が止まった。


『私は神様がいると思う。そして、いつかきっと可哀想な私を助けてくれるはず』


 その言葉を読んだ時、私は、病室で目が覚めた時のお母さんの言葉を思い出す。神様はいるんだ。お母さんは、意識を取り戻した私に対してそう言った。


 私は顔をあげ、自分がいる部屋を見渡した。比較的裕福な家庭で、いつも優しい両親がいるこの環境。欲しいものはなんでも買ってもらえるし、物だけじゃなくて、愛情だって、いくらでも私に与えてくれる。この資料から読み取れるかつての私には、暴力を振るうようなお父さんとお母さんしかいなくて、手術代すら払ってくれない。


 可哀想だなと私は思うし、彼女が彼女のまま助けてもらえていたら、どんなに良かったことだろうと私は思う。でも、自分が死ぬことで悲しむ存在がいることを十分知っている。だから、代わりに私が死ねばよかったなんて、どうしても思うことはできない。神様はいる。私もそう思う。なぜなら、私はこうして生きているから。だけど、神様は全てを与えられていた私を助け、可哀想な彼女は助けてあげなかった。


「あなたの言う通り、神様はいたよ。でも……」


 私は立ち上がり、彼女の人生に書かれた資料を手で持つ。それから、もうこの世には存在しない、かつての私に対して、呟いた。


「どうせだったら、もっと優しい神様だったら良かったのにね」


 私は資料をゴミ箱に捨てる。そして、そのまま部屋を出て、優しいお父さんとお母さんが待っているリビングへと降りていくのだった。

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