第九十話 雀の面の男
スリを追いかけていたオヅマは、人のまばらな城塞外壁近くまで来て、ようやく捕まえられそうになって手を伸ばしたが、その時突然、目の前の男が驚くべき跳躍力で外壁の上に飛び乗った。
「……やれやれ」
雀の面を被ったまま、男はあきれたようにつぶやいてオヅマを見下ろす。
「大した坊やだね。俺に追いつくとは」
「うるせぇ、この雀野郎! とっととアドルの金を返せ!」
「金? あぁ…」
男は腰に吊り下げていた革袋を取ると、何の未練もないようにオヅマに放り投げた。
「は?」
オヅマは袋を受け取って、ポカンと口を開ける。
「なんだよ。返して欲しかったんだろ?」
「そうだけど……」
オヅマは革袋をまじまじ見つめた後で、キッと雀の面の男を睨みつけた。
「簡単に返すんだったら、最初っから取るなよ!」
思わぬ説教に、男は一瞬絶句してから、ケラケラ笑い出した。
「おっもしろいなぁ、お前。ここに来て、一番の収穫だよ」
「何を訳のわかんねぇことを…この野郎。そこ動くな! とっ捕まえる!!」
「動くなと言われて、素直に聞くような奴はスリなんてしないんだよ~」
雀の面の男は楽しそうに言うと、ヒラリと壁の向こうへと姿を消した。
向こうはかつての城塞の外壕跡で、崩れた瓦礫と岩だらけの場所だ。普通は城塞外門から外に出ないと、この壁の向こうには行けない。
門はここから遠く離れた場所にある。いったん門まで行って、この壁の裏まで走って辿り着いたとしても、その頃には男がいなくなっているのはほぼ確実だ。
オヅマは高い壁を見上げて、男のように走って飛び乗ることができるかと試してみたが、古びた煉瓦を爪で引っ掻くのがせいぜいだった。
「チッ! クソ…」
舌打ちしていると、後ろからアドリアンがようやく追いついて声をかけた。
「逃したか…?」
「逃がしてない! ホラ」
オヅマは男から渡された革袋を突き出した。
アドリアンは受け取って、目を丸くした。
「え…なんで?」
「知るか。なんか返してきたんだよ。っとに…あっさり返すなら盗るなってんだ」
オヅマはぶつくさ言いながら、元来た道を戻り始める。
その時、パシリコ達がようやく到着した。
「おぉ、オヅマ。駄目だったか?」
「違う! 金は返ってきたっての!」
パシリコが意味がわからぬ様子でアドリアンの方を見ると、アドリアンは革袋を持ち上げて見せる。
「…ひとまず、無事ということか」
「帰りましょう。マリー達が待ってる」
アドリアンは促してから、むくれたオヅマに問うた。
「スリの男が観念して君に返してきたの?」
「観念?………そんな感じじゃなかったけどな」
オヅマは雀の仮面の男との会話を思い出す。
なんか人を食ったやつだった。ムカつくが、さほどに嫌な感じもしない。
「返せーっ言ったら、ハイどうぞーって返してきた」
「………妙だな」
アドリアンは顎に手を当てて考えながら、手首に下げた革袋を見つめる。
何だか、違和感がある。似ているが、これはさっきまで自分の持っていたものと同じだろうか?
ゆっくりと歩きながら、アドリアンは袋を開けて中身を見た。
お金は入っていた。金額を正確に数えたのは数日前なので、そこは同じかどうかわからない。しかし、銀貨も入っているので、盗まれたとは考えにくい。
軽く揺すって中身の確認をしていると、シャラシャラと鳴る硬貨の間からやや分厚い紙が出て来た。
アドリアンが紙を取り上げるのと同時に、広場から円舞の音楽が聴こえてくる。
「おっ! もう始まってんぜ」
オヅマが軽くアドリアンの肩を叩き、硬直していたアドリアンの手から紙が落ちた。
「あ? なんだ、これ?」
オヅマは落ちていく紙を素早く空中で拾って、何気なく見た。しかしアドリアンがあわてて取り上げる。
「……なんだよ?」
オヅマは眉を寄せた。なんだかアドリアンの様子がおかしい。
「……いや。なんでもない」
アドリアンは紙を一瞥した後、再び革袋に放り込んで、広場へと歩き出す。
オヅマはフンと鼻を鳴らした。
この数ヶ月、対番で一緒に生活してきたせいで、わかる。あの態度は何かあったのだ。
あの紙も意味深だった。
何かを示すかのような図形と、チラとだけ見えた言葉。
『誰にも知られてはいけない』―――――
マリー達はどこかと探していると、人の間を縫って、カールが現れた。
「オヅマ…こっちだ」
暗く厳しい顔をして、小さな声で呼びかけてくるカールに、オヅマはすぐに異変を感じた。
無言で歩いて行くカールに従いて、円舞で盛り上がる広場を抜けると、樅の木の下にあるベンチで、青い顔をした母が、ほとんど抱きかかえられるようにヴァルナルに寄りかかっていた。
「母さん!」
オヅマは走って行く。
その背後で、暗い顔のアドリアンが立ち尽くしていた。




