第八十六話 エラルドジェイ(3)
「おい、ヴァルナル・クランツが館に戻ったぞ。どうやらうまくやってくれたみたいだな」
ダニエルは横柄な口調で話しかけてきて、まるで自分がうまくやったかのように胸を反らす。
エラルドジェイはさっき買った雀の面を片手に持ちながら、軽くため息をついた。
「それは良かった。役立たずでなくて」
その言葉の後に『誰かさんと違って』と言いたいのをこらえる。
帝都から、この北の果ての辺境に来るまで二十日近く、この男と一緒に旅をしてきた自分を褒めてやりたい。
◆
ニーロの賭けに乗った後、娼館に入り浸っているダニエルを訪ね、レーゲンブルトに一緒に行くように提案すると、当然ながら彼は反吐が出そうな顔でエラルドジェイを睨んだ。
「冗談じゃない。何のためにお前達みたいなのに頼んだと思ってるんだ? レーゲンブルトなんて辺境のクソ寒いところに行きたくないから、大金を払ってやったのだぞ。それなのに、なんだって僕が行かねばならないんだ?」
案の定の反応ではあった。
そりゃあ、こんな場所にいて、北の果てに行こうなんぞと言われたら、普通は断るだろう。エラルドジェイが反対の立場でも、ふざけんなと叩き出すところだ。
しかし、こちらは物見遊山に誘っているわけではない。
「今回の依頼は誘拐です。拉致して、二十日以上かけて移動するとなれば、発見される可能性は高くなる。追手はなかなかに面倒な相手ですしね」
誘拐してすぐに帝都に運べる魔法でもない限り、あのレーゲンブルト騎士団を出し抜いて小公爵を連れ去るというのは至難の業だ。
「それをどうにかするのが、お前らの仕事だろう?」
「私共も仕事は成功させたいと考えております。その為には、一番確実で安全な方法を取る。最終的に、貴方の望みを叶えるのであれば、なおのこと、帝都まで連れてくるより、辺境の田舎で始末した方が無難だと思いますよ」
「フン。お前達が無能だと御託を並べているだけの気がするがな」
エラルドジェイはすぅぅ、と頭から冷たい血が流れていくのを感じた。
ベッドの上で寝そべって様子を窺っていた女は、薄布を羽織って、ベッドから降りた。
そのまま無言で出て行く女に、ダニエルはあわてて立ち上がったが、声をかける間もなくエラルドジェイに首を掴まれ、ベッドに押し倒された。
「……わからん人だな、アンタ。こういう事を頼むのなら、自分がどういう立ち位置にあるのかをわかった上で行動するもんだ。金さえ出せば、俺達が唯々諾々と従うとでも思ってるのか? 俺はここでアンタを殺して、そのままアンタの持ち金を奪うこともできるんだぜ?」
無論、ハッタリである。
こんなところで、依頼人を殺して金を奪ったとなれば、信用は一気にガタ落ちだ。
しかし、依頼人と請負屋の関係を主従か何かと勘違いしている世間知らずの若様には、少々キツめに言っておいたほうがいいだろう。
脅迫しながら笑顔を貼りつかせているエラルドジェイがよほどに薄気味悪かったのか、ダニエルは必死で頭を振って謝る素振りを示す。
エラルドジェイは首から手を離すと、ベッドから降りた。
酷薄な光を浮かべた濃紺の瞳が、ゴホゴホとむせるダニエルを見つめる。
大きく開いた袖口に手を引っ込めて、再び出てきた手の中には胡桃が二つあった。ゴリゴリと手の中で弄んだ後、パキリといともたやすく割る。ボロボロと、エラルドジェイの手の中から落ちていく胡桃の殻を、ダニエルはぽっかり口を開けて見つめていた。震える手が無意識に先程まで押さえられていた首に触れる。
「ダニエル・プリグルス…」
「な……な、なぜ僕の名前を……」
急に名前で呼ばれて、ダニエルはあからさまに動揺した。
なぜ、教えていないはずの自分の名前を知っている…?
いつまでもベッドの上で情けなく自分を見上げているダニエルの襟を掴んで強引に立ち上がらせると、エラルドジェイは耳元で囁いた。
「……誰かに自分の手柄を示したいなら、それなりの労力を見せた方が、相手の心証は良くなるものさ。金をもらうってのは、そういうことだ。言ってる意味、わかるかい?」
「…………」
ダニエルはブルブルと震えるばかりで、理解できているのかはわからない。
エラルドジェイは狡猾な笑みを浮かべ、ダニエルを抛り出した。
「で、どうする? やめるか? まぁ、やめてもらっても俺らは特に問題はない。アンタが思ってるように、下層のゴミ屑みたいな存在なんでね。ただ、アンタに金をくれた奴は、無能なくせして事情を知った人間に、容赦はないと思うがね。それは、アンタの方がよくわかってるんじゃないのかい?」
金を受け取った時点で、既にダニエルの未来は知れていた。
目先の金に心を奪われて、この男は浅はかにも自分を売ったのだ。売ったという自覚もないままに。
今となれば、ダニエルが肉屋に来たのも、自分で情報を手に入れたのではなく、仕向けられたと考えた方が自然だろう。
この男はもはや完璧に操られている。その小公爵とやらを殺さねばならないという狂気じみた思考も含めて。
エラルドジェイはダニエルと向き合いながら、素早く計算して、この仕事が終了したら早々に、しばらく身を隠すべきだと思った。
成功の是非を問わず、どうせこの男は遠からず消される運命だ。
こちらとしては、金だけもらってトンズラして、しばらくは大人しくしてやり過ごすのが一番穏便に済む。
ニーロにも伝えた方がいいだろう。いや、ニーロであればそれくらいのことは、もうわかっているか。
「…………わかった。レーゲンブルトに行く」
ダニエルは白い顔で了承した。
もはや自分が後戻りできないところまで来ていることを、ようやく悟ったようだ。
◆
斯くして、エラルドジェイは帝都からレーゲンブルトまでの長い道中、この気位ばかり高くて鼻持ちならない厄介者のお守りをせねばならなかった。
途中で何度か殺して金を奪って逃げようかとも思ったが、無論、そんなことは出来ない。
商売の信用を失う…ということだけでなく、黒幕が中途半端に足を突っ込んだエラルドジェイやニーロの口を封じる可能性がある。
この男は防波堤だ。
最後まで生かしておき、一連の事件の首謀者としてすべてを呑み込んで、あの世に持っていってもらわねばならない。




