第四話 レーゲンブルト領主ヴァルナル・クランツ
「お願いします!」
ヴァルナル・クランツは、近くの森で行っていた演習から三日ぶりに帰ってきて、奇妙な光景に遭遇していた。
自分の館の門の前で、門番に深く頭を下げている少年。
緩やかな坂道の畝の上、馬上のヴァルナルから彼らの姿は遠く見えていたが、まだあちらは気付いていない。
「パシリコ、あれは何だ?」
斜め後ろについてきた部下に尋ねると、パシリコ・ライル卿はヴァルナルの隣に馬を寄せて短く答えた。
「少年と門番のジョスです」
「それはわかってる。何をしているんだ?」
「もう少し近付けば判明するでしょう」
鹿爪らしい顔ですげなく答える部下を見て、ヴァルナルは軽く嘆息する。
十歳年上の歴戦の勇士であるが、武人とはこうあるべきだ! という姿を見事に体現していて、余計なことは一切言うこともなく、当然ながら軽口を叩いたことなど一度もない。
「追い払いますか?」
ヴァルナルの気持ちを察して申し出たのは、もう一人の副官であるカール・ベントソン卿だったが、ヴァルナルは肩を竦めると「否」と答えた。
「とりあえず行ってみよう。但し、油断するな」
ヴァルナルがそう言ったのは、まだ少年とはいえ時に敵方が小さな暗殺者を寄越すことを経験していたせいもある。もっとも、この領地において敵というのは基本存在するはずもないのだが。
「お願いします! ご領主様にお取次ぎして下さい! 話を聞いてもらえば、きっと喜ばれるはずなんです!!」
まだ声変わりする前の少年の甲高い声がハッキリと言うのが聞こえて、ヴァルナルはフンと鼻で嗤った。
随分と大言壮語するではないか。この私が喜ぶと確信しているとは……
馬の嘶きに少年はハッとした様子でこちらを向いた。
いつの間にか騎馬が道を埋め尽くしていることに驚いているようだ。
それは領主館の老門番であるジョスも同様であった。
「お、おお…お…ご領主様、お帰りなさいまし」
あわてて出迎えてペコリと頭を下げてくる。
「ご苦労。で、その少年は?」
「は…はぁ…いきなり来てご領主様に会わせろと…かれこれ一刻(一時間)以上」
「なかなか粘るな」
ヴァルナルは馬から降りると、少年の前に立った。
少年は驚いて固まっているようだった。
薄汚れた亜麻色の髪に、やや浅黒い膚は西方の民の血が混ざっているのだろうか。淡い紫のライラック色の瞳が印象的だった。
「跪け!」
カールが怒鳴りつけると、少年はあわてて膝を折り、頭を下げた。
「名は?」
ヴァルナルが問いかけると、少年は平伏したままハッキリと答えた。
「オヅマです!」
「オヅマ…姓は持たぬか?」
「はい! ラディケ村から来ました!」
「……歩いてか?」
「はい! あ、いや…走って来ました!」
「村を出たのはいつだ?」
オヅマはその質問の意図をはかりかねたのか、一瞬だけチラリとヴァルナルの方を見た。
すかさずカールが怒鳴りつける。
「すぐに答えろ! 小僧!!」
「えっと……金五ツ刻(*およそ午前九時頃)の鐘の後だったと思うけど…」
「ほぉ…」
ヴァルナルは内心の驚きを抑えて、軽く感嘆する。
埃っぽい赤銅色の髪を掻き上げてから、思案するように髭の伸びた顎をボリボリと掻いた。
パシリコとカールは互いに目配せしあった。これはヴァルナルが興味を持ったことを示す行動だ。
理由は明白だった。
ラディケ村は馬で走れば三刻(*三時間)ほどで辿り着く場所ではあるが、徒歩となれば険しい山道を下って、いくつかの丘陵を越えねばならず、大人の足でも半日はかかる。
まして今は多少暖かくなってきたとはいえ、まだ山道に雪の残る季節だ。金五ツ刻(*午前九時)きっかりに出たとしても、普通であればこの時間には到着などしていないはずだ。
しかも子供の足で。
「ジョス、この小僧がここに来たのはいつだ?」
ヴァルナルが問うと、老門番はしばらく宙を見てから、
「太陽がまだこの辺りにあった頃にございます」
と、ほぼ頭の上を指差す。
ヴァルナルは空を見上げてから、再びオヅマに視線を落とした。
「ラディケ村のオヅマ、もう一度聞くぞ」
「はい」
「ここには走ってきたのか? 嘘をつくなよ。騎士に嘘をつけば、その首が飛ぶぞ」
「嘘じゃありません!」
オヅマは思わず顔を上げて、ヴァルナルを強い眼差しで見つめた。口元には少しだけ笑みが浮かんでいたが、グレーの瞳は厳しくオヅマの様子を窺っている。
「商人の荷馬車にでも乗せてもらって来たのではないのか?」
カールが少し嫌味っぽく言うと、オヅマはキッとその金髪の騎士を睨みつけた。
「嘘をつくなと言うから本当のことを言ってるんだ! ここに来るまで、ずっと走ってきた!! 止まったのは、途中で小川の水を飲んだ時だけだ」
この時、オヅマはヴァルナルが自分を品定めしていることに気付いていなかった。
生まれてこの方、ラディケ村から出たこともないオヅマには、ラディケ村からレーゲンブルトまでの距離や時間が、どれほどかかるかなど知りようもなかったのだ。
「いいだろう。ラディケ村のオヅマ。話を聞いてやる」
ヴァルナルはそれでもさほどに期待していなかった。
言っても子供の言うことである。大したことではあるまい……
「馬です」
いきなりオヅマは言った。
その場にいた大人達は首を傾げる。
「馬がいます。ヘルミ山の裏崖に。とてもいい馬ばかりです」
そこはかとない自信を漂わせて言うオヅマに、ヴァルナルは鋭い視線を向けた。
「お前は…騎士にとって馬がどういうものかわかっていて、言っているんだろうな?」
それまで柔和だったヴァルナルが一気に騎士として豹変したのを目の当たりにして、オヅマは気圧されそうになった。
ゴクリと唾を飲み込んで、必死でヴァルナルの視線を見返した。
「わかっているかどうかは…実際にご覧になってみて下さい」
「………」
ヴァルナルは静かにオヅマを見据えていたが、心中では目の前の少年の度胸に少々驚いていた。
見たところ八、九歳ほどに見えるが、年不相応に落ち着いた様子からすると、あるいはもう少し年をとっているのかもしれない。十分に食べられず、痩せて成長が遅い可能性もある。
「それで? お前の望みは?」
「へ?」
「私に馬のことを教えるのは、見返りを得るためだろう?」
「それは…」
オヅマは言い淀み、首を振った。
「馬を見てもらって、いいと思ったら、願いをお聞き下さい」
「ほぉ。私がいいと思わなかったら、どうする?」
「その時は仕方ないです」
ヴァルナルはますます面白かった。
なかなかに頭のいい少年だと思った。
ここで願いを言って、それがヴァルナルにとってつまらなかったり、到底聞き入れることのできないことであれば、馬のことも興味をなくす可能性がある。
あくまでも馬についての情報に集中させて、より期待値を上げている。
その上で願いを聞き入れることも、事前に了承させているわけだ。
無論、この場合重要なのは、ヴァルナルが納得したことを素直に認めることが前提であるわけだが。
「もし、私が嘘を言ったらどうする?」
「はい?」
「お前が教えてくれた馬を見て、心の中でだけいい馬が手に入ったと喜んでおいて、お前の要求を聞き入れないことも有り得るぞ」
「そんなことはないと思ったから、ここまで来ました」
オヅマは深く考えずに答えた。
そこについては、あまり心配していなかった。
クランツ男爵の噂については村でも時々聞いているが、そうした卑怯な行為を行うような人ではない。それにここに来るまでの間に、クランツ男爵のことを考えていたら、また夢を思い出したのだ。
夢の中でオヅマはただ黙って立っているだけだったのだが、その前で二人の人間が話していた。彼らはグレヴィリウス公爵がまだ幼い頃に、彼を身を挺して庇い、命を落とした騎士について話していた。
騎士の名前はヴァルナル・クランツ。
会話の細部まで思い出すことはできなかったが、その二人は卑しい笑みを浮かべて、殉職したクランツ男爵について語っていた。
夢の中のオヅマは顔には出さなかったが、その二人のことを忌み嫌っていたので、彼らが悪し様に話すクランツ男爵は、非常に高潔な人間であったのだろうと……感情の記憶だけが生々しく残っている。………
「私を信頼するのか?」
「はい、信頼しています!」
ヴァルナルはとうとうたまらず、大笑いした。
本当にいい度胸だ。見ていて気持ちがいい……
「いいだろう、オヅマ。明日、ヘルミ山に向かう。お前は案内しろ」