第五十二話 白蛇と大公
「……グレヴィリウス公はなんと?」
ヴィンツェンツェ老人は、大公の身体に刺した鍼を一本一本、丁寧に抜きながら尋ねる。
寝台にうつ伏せになりながら、ランヴァルト大公はグレヴィリウス公爵からの書翰―――こうした形式的なものであれば、それを起草したのも書き綴ったのも、おそらく補佐官あたりであろう―――を投げ捨てた。
「他愛も無い。此度の詫びと、息子を公爵邸からしばらく追い出すそうだ」
「………ほぉ?」
「北部の辺境の地で、しばらく騎士としての修行をさせるらしい。念のいったことだが…これは罰なのかな? ピクニックに行くのと変わらぬ気もするが…」
「些かおかしな罰ではありますが、ひとまずこちらの顔は立てた…と、いうところでありましょう」
ヴィンツェンツェ老は喉奥で笑みながら、慎重に鍼を抜いていく。
「それで、こちらの馬鹿はどうしている?」
大公は枕の上でとぐろを巻いて眠る白蛇をゆっくりと撫でながら、煙管をふかせた。
大公の言う馬鹿というのは、息子であるシモン公子のことだった。
「北の塔に閉じこめましたが、すぐに御方様の手の者によって脱けられた由。今、あそこにいるのは替え玉として連れてこられた乞食にございます」
大公は長く煙を吐いた。
口元にはあきれた笑みが浮かんでいたが、紫紺の瞳は脳裏に浮かぶ息子と妻の姿を冷たく見ている。
「まったく母子揃って……ヴィンツェ」
「は?」
「其方 、あの阿呆共を多少なりと、まともにできる薬でも作れぬか?」
「ホッホホ!」
ヴィンツェンツェ老は声を上げて笑った。ゆっくりと最後の鍼を抜いて、「終了致しましてござります」と静かに告げる。
大公が起き上がり衣服を整えていると、寝ていた白蛇がゆっくりと動いてその背を這っていく。
「シモン公子もあれで、目端のきくところもございます。『割れた皿も使いよう』と、申すではありませぬか」
「フン…いつまでも母離れできぬ幼子のごとき男に、何の使い勝手があるのやら…。本当に我が息子かと疑いたくなる」
「残念ながら、公子様のご容貌は瞳の色を除けば、若き日の殿下によく似ておられます。御方様の不貞は認められませぬな。……現在はともかく。先だっても、寝室にてホガニ子爵の令息とマルッケンダント伯爵が鉢合わせして、色々と騒がしかったようでございます」
「……男狂いが」
大公は吐き捨てると、ヴィンツェンツェ老に命じる。
「その替え玉の乞食とやら、殺さずにおけ」
「おや? よろしいので?」
「割れた皿より使い道があるやもしれぬ」
「………かしこまりました」
ヴィンツェンツェ老は深く辞儀をして、その場を去った。
大公は煙を吐ききると、窓を開けてバルコニーに出た。
既に夜は深く、ザザザと葉を渡る風の音と共に梟の啼声が聞こえてくる。
「つまらぬな……レーナ」
大公はバルコニーの柵に手をついて、首元に絡まる白蛇に話しかけた。
「最近になって、やたらとお前の妹のことを思い出す。お前が夢でも見せているのか?」
チロチロと白蛇は赤い割れた舌を動かした。
首から腕を伝って下りていくと、バルコニーの柵を這っていく。
音もなくスルリスルリと端まで行き、そのまま闇に消えたかと思うと、キキキッと小さな鳴き声が聞こえてきた。
しばらくすると、喉を太らせて戻ってくる。
大公は満足気に微笑んだ。
「美味いか? 皇居の鼠は」
ビクビクと蛇の喉の中で、鼠が動いていた。




