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昏の皇子  作者: 水奈川葵
第二章
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第四十八話 思慮深き小公爵

 公子達が去った後、グレヴィリウス公爵は息子を冷たく見据えた。

 ツカツカと歩み寄り、無言でアドリアンの頬を平手で打つ。容赦ない打擲(ちょうちゃく)に、アドリアンは頬を地面に擦りつけて倒れた。


「公爵閣下!」


 ヴァルナルは叫んだが、ジロリと睨んでくる公爵の剣幕に口を閉ざす。


「立て」


 公爵は無情に告げる。

 アドリアンは口の端から流れる血を手の甲で拭いながら、立ち上がった。


「殴られる時に歯を食いしばることも知らぬのか?」


 淡々と言って、公爵は再び息子の頬を打った。

 アドリアンは今度は唇を噛み締めて、よろけつつも、立ったままだった。

 いつの間にか握りしめた拳は震え、またポタポタと血が落ちた。


「言い分があれば聞く」


 公爵は腰に下げていた小さな杖を持ちながら、息子に問いかけた。

 その声音には一片の感情も感じられない。


「……ありません」


 息子の短い返答に、公爵は眉を寄せた。「ない……だと?」


 アドリアンは俯けていた顔を上げ、父をしっかり見た。


「はい。何もございません」


 公爵はヴァルナルをチラリと見たが、そもそもヴァルナルにも喧嘩の発端となることについてはわからない。


「私も詳しくは存じ上げませぬが、小公爵様は理由もなく手を上げるような方ではございません」

「………息子に甘いな、男爵」


 公爵は眉を寄せたまま、今度は杖を振り上げると、容赦なくアドリアンの背を(なぐ)った。


「うッ!」


 アドリアンはさすがに耐えきれず、膝を折って地面にしゃがみ込む。

 打たれたその時の痛みよりも、じわじわと後から効いてくる鈍い痛みに初めて顔を顰めた。


「公爵閣下、それ以上はおやめ下さい」


 ヴァルナルは耐えきれなくなって、アドリアンを庇うように公爵に向き合った。


「どけ……ヴァルナル」

「お許し下さい、公爵閣下。これ以上の詮議は無用です。おそらく小公爵様は決して口を開かれぬでしょう」

「ヴァルナル。私はお前に何もかもを許したわけではない。出過ぎた真似をするな」

「………」


 それでも動けぬヴァルナルの腕を掴んでアドリアンは立ち上がった。

 自ら進み出て、公爵の前に立つ。


 まだ齢十歳だが沈着な息子の、自分と同じ(とび)色の瞳に頑固なものを感じて、公爵は諦めの溜息をもらした。


「……もうよい。私は帰る」


 公爵が立ち去った後、ヴァルナルはそっとアドリアンの傷ついた右手をとった。

 手のひらの皮膚が爪で破かれ、溢れた血で真っ赤だった。


「……これほどまでにお怒りであるのなら、尋常のことではなかったのでしょう」


 ヴァルナルは事情を聞くことはしなかったが、汲み取った。

 さっきも言った通り、この沈着冷静な小公爵がそうそう激昂することなどあり得ないのだ。よほど腹に据えかねたのだろう。


 ハンカチをややキツめに巻いていくヴァルナルを、アドリアンは相変わらず無表情に見ていたが、不意にボソリとつぶやいた。


「……母上のことだ」


 ヴァルナルは一瞬手を止めた。

 アドリアンを見ると、懸命に泣くことを我慢し、見開いた瞳は真っ赤だった。唇はブルブルと震えている。


 ヴァルナルは結び終えてから、微笑んで言った。


「小公爵様は、お母上に似て、本当に思慮深い方でございます」


 公爵の亡き夫人への愛情は、その(ひと)を失ってもなお深い。いや、いっそ失ったからこそ、より深くなったと言ってもいい。

 エリアス・グレヴィリウスにとって、妻に関する侮辱は自分への侮辱である。もし、公爵がこの事を知れば、たとえ相手が大公家であろうと、ありとあらゆる方法で、シモン公子への報復を行うであろう。

 常軌を逸していると言われることも厭わぬほどに、公爵にとって妻は大事で、決して傷つけてはならぬ(ひと)なのだ。

 下手をすれば大公家と公爵家との争いになりかねない。


 アドリアンは考えた末に口を閉ざしたのだ。公爵が事実を知らねば、ただの子供の喧嘩で片付けられる。


「ヴァルナル」


 アドリアンは優しくされて、思わずこぼれた涙をすぐさま拭った。


「はい?」


 気づかぬふりをして、ヴァルナルは返事する。


「お前の黒角馬(くろつのうま)、乗ることはできるか?」

「さようですな…まだ調教が完全ではございませんので、私の馬に乗るのは難しいかもしれませんが……」


 話しながら、ヴァルナルはアドリアンと手をつなぐ。

 そのまま園遊会の会場を逸れて、馬車溜まりへと歩いていく。


 母親に似た聡明さを持った小公爵。

 だが、ヴァルナルの手をつかむ手はまだ小さく、震えている。


 常日頃からの教育の賜で、決して怯えや不安といった感情を表さぬようにしているアドリアンではあるが、自分よりも上背のある年上の少年達に囲まれて怖くなかったはずがない。

 無情な父からの打擲(ちょうちゃく)に心を痛めぬはずがないのだ。


 ヴァルナルは帰る道で、一つの提案を考えていた。

 アドリアンがグレヴィリウス公爵家の跡取りである以上、あの家から逃れることはできない。

 だったらせめて……


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