第四百六十九話 夜会にて ―― イングウェル・グルンデン小侯爵(3)
「すみません。大声を出してしまって……」
「ううん。うん、うん。うん、ハヴェルの言う通りだ。ハヴェルは正しい、よ。いつも」
イングウェルはまるでハヴェルを励ますように言う。
この兄弟の仲は少々変わっていた。
普通であれば兄は優秀な弟にコンプレックスをいだいて敬遠しそうなものであったが、イングウェルは純粋にハヴェルを弟として可愛がった。
赤ん坊だったハヴェルを弟だと紹介されたときから、彼にとってハヴェルは唯一無二の愛らしい弟であり、長じては誰より頼りがいのある存在だった。
多くの者は二人を比べ、明らかに優れた弟に対し劣る兄を嘲笑したが、イングウェルは自分が馬鹿にされることよりも、ハヴェルが褒められることを喜んだ。(むしろハヴェルの方が、兄を侮辱する者を厳しく叱責した。特に怒られたのは今、イングウェルのために林檎ジュースを取りに行っているアルビンである)
ハヴェルはこの兄の愚かさを冷笑しながらも、同時に彼には持ち得ない兄の無邪気さに安堵もしていた。
自分に対して興味のない実父も、自分を自らの権力の足固めとして利用する実母も、ハヴェルは嫌っていた。彼がグルンデン侯爵家の中で唯一家族と思うのは、兄だけだった。
ある意味彼らは、仲の良い兄弟といえた。
「あ、あ、あのね。さっき会った子ね、優しかったよ。僕のあげたクッキーもね、あの、もうポケットの中で割れちゃっていたんだけど『ありがとうございます』って、ちゃんと受け取ってくれてね」
イングウェルはやはり状況をよくわかっていないようだった。そのことで自分が怒られているにもかかわらず、脳天気に出会った少女の話を始める。
ハヴェルは内心うんざりしながらも、機嫌の良い兄に話を合わせた。
「そうですか。よかったですね」
適当に相槌をうつ。どうせ相手は新入りの女中か何かだろう、とタカをくくっていた。
よほどの世間知らずを除いて、令嬢らの多くは見た目に気味悪いイングウェルを、あからさまにでなくとも忌避した。イングウェルもまた高慢な貴族令嬢に比べると、反応が素直な身分の低い少女を好んだ。
今回もそうだろうと思っていたが ――
「とても優しくて、可愛らしい方だね。新しい公女様は」
イングウェルの発した言葉に、ハヴェルはしばし止まった。
ゆっくり反芻して聞き返す。
「……公女様?」
「そう。公爵閣下が紹介されていただろう? えーっと、えっと、サラ……サラ……」
「サラ=クリスティア公女のことですか?」
「うん、うん。そう、そう。ピンク色の髪をした……ホラ、死んだ公爵夫人にそっくりの。お前、びっくりしたんじゃないかい? 公爵夫人はアドリアンを産んで死んだと聞いてたけど、サラ=クリスティア嬢も産んでいたのかな?」
ハヴェルは兄の無神経な問いかけに苦く笑ってから訂正した。
「いいえ。サラ=クリスティア公女の母親はペトラという女ですよ。見た目だけは公爵夫人に似ていたというから、公女もリーディエ様と似たところがあるのかもしれません。それにしても……そうですか。兄上はサラ=クリスティア公女と話されたんですね」
「あ、う、う、うん。そう、そうね。僕、人がいっぱいで頭痛いから、この部屋に来て、休もうと思った、ん、だよね。でも、でも、気付いたら……なんだか、ね、知らない廊下を歩いていて、誰もいなくて……」
ハヴェルはクスリと笑った。
イングウェルは方向音痴で、いまだにサコロッシュの侯爵邸でも決まった道以外に行くと、自分の部屋に戻れない。
「そうですか。偶然とはいえ、公女様にご挨拶できたのは僥倖でしたね」
「うん? あ、うん。そうね。良かったよ。優しくて、いい子だった。お付きの侍女と二人で、疲れちゃったのかな? なんだか具合が悪そうでね。困っていたんだ。だから僕、大きな声で叫んであげたんだ。ホラ、狼みたいにね。遠吠え。オオォーン! ってさ。似てるだろ? 僕、動物の鳴き真似がうまいんだ。他にも……」
また話が脱線しかける兄を、ハヴェルはやんわりと戻した。
「動物の鳴き真似は前にも聞きましたから、知ってますよ。それで兄上が公女を助けて差し上げたんですか?」
「あぅ、あ、う、うん。あ、ううん。僕の鳴き真似を聞きつけたんだろうな、父上が来てくれたんだよ。父上が召使いを呼んでくれて、二人とも帰っていったよ。でも、でも……意外だったな。サラ=クリスティア公女には、侍女が一人しかいないらしいんだ。母上には、いっぱいいるのにね」
ハヴェルは兄の何気ない一言に、ハッとなった。
ゆっくりと、口の端が笑みに歪む。
「そうですか。サラ=クリスティア公女には侍女が一人……」
つぶやくハヴェルの脳裏に、オルグレン家から選出されたという庶子出の侍女の後ろ姿が浮かぶ。特徴的なあのルビーの髪色以外に、これといった印象はない。
「確かに、グレヴィリウスの公女ともあろう方に、侍女が一人というのは少ないですね」
「あ、あ、そう。そうだよね? お前もそう思う? 僕も思った。僕も思ったんだよ! うん。僕もそう思ったんだ! グレヴィリウスの公女の侍女がたった一人だなんて、可哀相だよね?」
イングウェルは賢い弟と同じ意見であることが嬉しかったようだ。興奮したように、何度も繰り返す。
「えぇ。兄上に同意します。とても大事なことです、これは」
ハヴェルはニコニコ笑って言った。
「新たな侍女を選出せねばなりません。公女の為に」




