第三話 領府・レーゲンブルトへの道
夢が本当に夢になったのだとわかったのは、翌朝のことだった。
ミーナに叩き起こされたオヅマは、父が死んだと伝えられた。
「誰に? 母さんじゃないよね!!」
思わず尋ねてしまってから、不思議そうに首をかしげる母の姿が昨日までと変わりないのを見て、深呼吸して気を落ち着ける。
「どうして? 本当に?」
問いかけると、ミーナはうつむいて答えた。
「用水路に落ちて…酔っ払って足を踏み外したんだろう…って」
父が飲んだくれて家に帰ってこないのはしょっちゅうだった。
多くは飲み仲間の家にそのまま泊まり込んだが、昨日は珍しく飲み仲間の誘いを断って家に帰ろうとしていたらしい。
「オヅマよぅ……お前が一生懸命働いてたんだぞ…って、クノスの親爺から怒られてよぅ…アイツ…アイツ…アイツなりに情けなくなったんだ。白けちまって…それで、家に帰るってよぅ……」
飲み仲間の一人であるテルホは赤くなった鼻を擦りながら、しんみり言ったが、その吐息は酒臭かった。
オヅマは特に何も思わなかった。
父が改心したとは思えないし、単純に自業自得で死んだに過ぎない。
とりあえず、母が父を殺して絞首刑に処される夢は消えたのだ。
だが、悪夢の全てがなくなったわけでないのは、父の葬儀の翌朝に、母の提案を聞いたときだった。
「お父さんも亡くなってしまって…もう小作人はできないわ」
あくまでもこの土地で小作人であったのは父だった。母は代理で手伝っていた…という体になる。妻が夫の職業を継ぐことはできなかった。父の小作分は新たな人がもらうか、今いる人々で分けるかされるのだ。
オヅマが成人していれば後を継ぐことは可能であったが、十歳では何の労働力の足しにもならぬ…とみなされ、成人まで待ってくれることもない。農作は毎年あるのだから、そんな悠長なことは言ってられないのだ。
「ここにはいられない。皆で帝都に行きましょう。あそこならば…伝手があるの」
そう言う母の暗い顔を見た時に、オヅマは身震いした。
反対に喜んだのはマリーだった。
「わぁ! 帝都に行ったら、毎日干しぶどうのパンが食べられるのかしら?」
「そうね。きっと…くださると思うわ」
まるで誰かから何かを与えてもらえるかのような口振りだ。
オヅマはその『誰か』がわからないのに、はっきりと恐怖していた。
ミーナはオヅマをじっと見つめて言った。
「今度こそ…真実だとわかって下さる。きっと…」
「駄目だ!」
オヅマは大声で怒鳴るように叫ぶと、立ち上がった。
「オヅマ?」
「お兄ちゃん? どうしたの?」
マリーはめずらしく怒っているように見える兄に怯えた。
やっと父がいなくなったのに、今度は兄が父のように自分を撲ったりするのだろうか…と、長年の染み付いた恐怖が離れない。
「俺は、行かない! 絶対、行かない!!」
「オヅマ……わかってちょうだい」
「駄目なんだよ! 行ったって、不幸になるだけだ!!」
それ以上、ミーナの説得を聞かずにオヅマは飛び出した。
村外れの丘の上まで来て、立ち止まる。
振り返れば故郷の小さな村。
まだ春浅い、雪の残る帝国の北の果ての村。
絢爛たる帝都に比べて、なんとわびしい村だろう。
それなのに郷愁は、故郷を美しく、あどけなく見せる。
オヅマは首を振った。
自分の気持ちがおかしくなりそうだった。
こんな気持ちは自分にはない。ないはずなのに、胸の奥は泣きそうに震えている。
「…………」
息を整えながら、オヅマは必死に考えた。
このままでは駄目だ。
このままではミーナはオヅマとマリーを連れて帝都に行ってしまう。
そうしてきっと、ガルデンティアの屋敷へ向かう。
そこで働かせてもらうか、働き口を紹介してもらうために。
オヅマの脳裏には、帝都の様子も、重厚で壮麗なガルデンティアの屋敷もはっきりと浮かび上がった。
……行ったことなどないはずなのに。
そうして次々に苦しい記憶が欠片となって閃き、その中には、マリーの死が見える。
「駄目だ…駄目だ…」
オヅマは何度もつぶやいた。
ぐるぐると考えが回る。
とにかく帝都に行かないようにしなければならない。
だが、親子三人で暮らしていかねばならない。
その為には働く場所を見つけなければならない。
この小さな村での働き口は限られている。
オヅマが父の酒代を稼いだ時のように、時折、お駄賃程度のことであれば人手を必要とされるが、継続的に働かせてもらえる場は村にはなかった。まして、この場合の働き手はオヅマではなく、女であるミーナなのだ。働ける場所は限られている。
オヅマは嘆息して、眼下の村をもう一度眺めた。
ぐるりと村を囲む壁は、所々崩れている。オヅマの住むラディケ村は、昔、北東部にあった群国との戦争の前線基地だった。
オヅマのいる小高い丘のような場所も、元はその基地の要塞の一部であったらしいが、帝国の治世が落ち着くに従って必要性がなくなり、むしろ反抗勢力の拠点になるなどの不安要素があるとして取り壊され、もはや跡形もない。
村からは二つの道が続いていた。
一つは、北の森へと続く道。
一つは帝都へと続く道。
帝都への道は、狭い山道を下って麓に辿り着くと、なだらかな丘陵の途中で枝分かれし、領主館のある町へと続いている。
帝都に行かないならば、領府・レーゲンブルトに行くしかない。あそこならば村よりは働き口は見つかりやすいだろう。
だが、ミーナを説得するには『行けば何とかなる!』では弱い。帝都に行けば、既に就職先として有力視される場所が、確実にあるのだから。ミーナがレーゲンブルトで働ける場所を、用意しなければならない。
しかしオヅマはレーゲンブルトに行ったことがなかった。
ミーナもそうであろう。何一つとして伝手はない。
オヅマがレーゲンブルトについて思い浮かぶのは領主のことだけだった。
現レーゲンブルト領主のヴァルナル・クランツ男爵は、グレヴィリウス公爵の配下で、元々は公爵家の騎士の一人だったという。
南部の部族紛争などで武功を認められ、騎士団長に昇格した後、公爵の領地の一部を分け与えられた。
それがこの北部地域のサフェナと呼ばれる一帯である。
その後、領主としての格式に見合うように男爵位を送られたらしい。
決して肥沃な土地とはいえないサフェナにおいて、寒さに強い作物を探したり改良したりして積極的に農業政策を指導し、今では他地域にも出荷できるほどにしたクランツ男爵の、領民からの人望は厚かった。
他の領主などのように搾取して私腹を肥やすこともなく、浪費にはしることもない。極めて堅実で実直な人柄と噂されている。
だが、それでも武人である。
今でも朝晩の遠駆や、騎士としての修練を怠ることはないのだという。
オヅマの頭の中でいくつものピースが高速に行き交った。
そうして一つの答えが浮かび上がる。
「よし!」
オヅマは気合を入れると、丘を上ってきた道と反対側に降りていった。