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昏の皇子  作者: 水奈川葵
第三部 第一章
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第四百六十八話 夜会にて ―― イングウェル・グルンデン小侯爵(2)

 弟の冷たい声に、それまでぼんやりと壁を見ていたイングウェルは、目をパチクリさせた。


「うぁ? え……えぇと、あの壁の模様がシミみたいだなぁ、って思って」


 まるで今初めて弟がいたことに気付いたかのように、しかも全く的外れなことを言い出す兄に、ハヴェルは苛立ちを隠すこともなかった。


「そんなことは聞いていません! 父上を困らせるようなことをなさったのかと、聞いているんです!」



 ハヴェルの二歳年上の兄・イングウェルは、いまだに頑是無(がんぜな)い子供のようなところがある。彼は自分の興味のあるものに対して、所構わず執着を示した。それはときに、庭に落ちていた綺麗な蝉の抜け殻であったり、艶々と丸いどんぐりであったり、池回りを跳びはねる青蛙であったりと、貴族令息としてはあまりふさわしからぬものであったため、家族はなるべくその姿を見せないように苦慮した。


 本来であれば、十三の年にはアカデミーにも入るはずであったが、彼の知能レベルでは授業に追いつくのも難しく、また彼の突飛な行動を制限もできないとあって、グルンデン侯爵は早々にあきらめた。

「元々、貴族嫡男は各々の家で、家庭教師に独自に教えてもらうものである」

と弁解めいたことを言ったが、侯爵家の嫡子でありながら、近侍もつけなかったのは、イングウェルに無用な劣等感を持たせたくなかったからであろう。こうした部分において、侯爵は息子を愛していたし、憐れんでもいたのだ。


 とはいえ、侯爵家の継嗣としてイングウェルもまた後継を残すという義務がある。侯爵はいつまでも子供じみた興味しか示さぬ嫡男に、男としての矜持(きょうじ)をもたせるため、成人を迎えた夜に、彼の寝室に婦人を送り込んだ。もちろん、そうした房術指導を行ってくれそうな女から、特に評判も良い者を()りすぐって。

 だが、この侯爵の『思いやり』は、イングウェルには通じず、むしろ底知れぬ恐怖を与えただけだった。

 彼は薄衣(うすぎぬ)(まと)った女性が自分のベッドに乗ってくるや、彼女の顔に枕をなげつけ、泣き喚きながら逃げ回った挙句、癲癇(てんかん)のような発作を起こして卒倒してしまった。


 侯爵は知らなかったのだ。

 イングウェルにとって、女性 ―― 特に成熟した女性は、母であるヨセフィーナを想起させる。彼女は幼い頃から息子を誹謗し、罵倒し、時には(しつけ)と称して鞭打つこともあった。幼少期から母親に否定され続けたイングウェルにとって、母と同じような、香水をたっぷり振りまいた貴婦人など恐怖でしかない。まして性的対象として見るなど、有り得なかった。


 その後、恐慌状態に陥ったイングウェルは、小部屋に籠もってしまい、最終的には侯爵自ら出向いて説得せねばならぬほどの椿事(ちんじ)となった。


 この一件で、いよいよイングウェルは女性が苦手だと自覚したが、例外となる存在があった。

 それは『少女』である。

 騒動の後、彼はグルンデン家の別荘で療養していたのだが、そこで下働きしていた少女らには、恐怖を感じなかった。

 彼女らは侯爵家の若様として、当然のようにイングウェルを敬った。蝉の抜け殻を集める彼を馬鹿にすることもなく、なんであれば拾い集めるのを手伝ったり、吃音(きつおん)気味の彼の冗談話にも楽しげに笑い声を響かせた。素朴で善良な少女らは、イングウェルに安らぎをもたらした。

 こうして蝉の抜け殻などと同等に、少女もまたイングウェルにとって興味対象の一つとなった。


 さて、こうした夜会において、イングウェルは概ね貴族らが集まる広間を避け、一人、人気(ひとけ)のない廊下や庭をうろつくのが常であった。そこで偶然、少女に出会うと、彼はあらかじめ用意しておいたお菓子をポケットから取り出し、彼女らとたわいない話を楽しんだ。初めての夜会に緊張した令嬢や、女中頭に叱られてしょんぼりした下女相手に、おどけてみせたりして、彼女らが笑う姿を見るのは、イングウェルにとって至福の時間であった。

 彼としては純然たる好意の吐露に過ぎなかったが、場所が場所である。否が応にも噂は立つ。


 いつしかイングウェル・グルンデン小侯爵は、()()()()()興味を示さない特殊な性癖の持ち主であるとの噂が、一部の貴族たちの間で囁かれはじめた。

 さすがに名門グルンデン侯爵家 ―― しかもグレヴィリウス家門の社交界を取り仕切るヨセフィーナと、グレヴィリウス公爵の信頼厚いハヴェル相手に、面と向かって嫌味を言う者などいるわけもなかったが、圧力があるほどに、噂は更なる好奇心と当て推量を含んで広がるものである。


 こうした状況下で、ハヴェルとしてはイングウェルを夜会に連れてくることは控えてほしかったのだが、グルンデン侯爵は継嗣としてのイングウェルの体面を守るために、この長男を伴った。これもまた侯爵なりの親心ではあったのだが……



「 ―――― 父上を困らせるようなことをなさったのかと、聞いているんです!」


 最近ではイングウェルのこの癖を侯爵もわかっていて、こうした貴族諸侯の集まる宴において、息子がいつもの困った行動を起こすと、すぐさま彼を小さなご令嬢から引き離した。

 こうしたときにわざわざ侯爵が出張るのは、従僕などに任せるとイングウェルが癇癪(かんしゃく)を起こして、かえって騒ぎが大きくなるからであった。彼は彼なりに侯爵家嗣子としてのプライドがあるのだろう。

 今回も父がわざわざイングウェルを伴って、この部屋に来たという時点で、彼のいつもの()が発動したのだと、ハヴェルはすぐに理解した。


「さっきの顛末(てんまつ)をご覧にならなかったのですか? 僕は公爵閣下から叱責を受けて、退場を命じられたのですよ? それなのに、兄上までも父上の手を煩わすようなことをなさるなんて!」

「あ、あぅ、あ……う、うん。そ、そうだね。あ、と……ごめん、よ」


 イングウェルはシュンとなって謝った。普段から曲がった背中をより縮めて、上着の端をいじいじと揉み出す。

 ハヴェルは心底疲れ切った溜息をついてから、兄の隣に座ると神妙に謝った。

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