第四百六十五話 夜会にて ― エディットの牽制(2)
「母親?」
ヴァルナルは思わず聞き返した。
その言葉が目の前の元妻に使われることに違和感しかない。
猛烈に湧き起こる怒りを拳の中に封じて、ヴァルナルはつとめて冷静に、久しぶりに会う元妻に呼びかけた。
「エディット・パレン。さっきも言ったが、君はまだ幼かった息子を置いて、男と出て行ったのだぞ。その後、一度としてオリヴェルについて尋ねてくることもなく、オリヴェル当人へ便りさえ寄越さなかった……」
エディット・パレン。
以前はエディット・クランツであったその女性は、公爵の肝煎りによってヴァルナルと結婚した後、戦地へと向かった夫の不在、慣れないレーゲンブルトでの生活に嫌気が差して、その地に来ていた代理行政官の一人と駆け落ちした。
その後、ルーカスの二番目の妻であるレティエ・フランセンの力を借りて、円満に ―― というよりも、双方とも相手への愛情が皆無であるが故に互いに無関心なまま ―― 離婚は粛々と成立した。
その当時は息子のことなど「産みたくて産んだわけではない」と、子への愛情どころか存在そのものを嫌忌しているような口ぶりであったのに、今になってノコノコ現れて母親面するなど、どういうつもりであるのか……ヴァルナルが警戒し、かつ苛立ちを覚えるのは無理もないことだった。
「君はオリヴェルを産んでからも、泣き声がうるさいからとあの子を遠ざけて、まともに抱くことも、あやすこともなかったと聞いている。レーゲンブルトにいる間ですらも、君があの子に対して愛情があったとは思えない。今の今までオリヴェルの母としての義務を放棄しておきながら、母親としての権利だけ主張するつもりか?」
猛獣が唸るかのように低く尋ねるヴァルナルに、エディットは気まずそうに下を向く。
だが、彼女もまた自分に対してまったく無関心であった夫に鬱屈を溜めていたのだろう。恨みがましくボソボソと言い返した。
「それは……だって、あの子は私よりもメリナにばかり懐いて……あなただってメリナとばかり話しておられたじゃないですか! 私のことなどまるでいないかのように……二人で息子を挟んで、まるで親子のように!」
最終的にエディットは吠えるように、激しく反論した。
ヴァルナルはムゥと眉を寄せた。メリナ・バルトンのことは、ヴァルナルにとっても忌々しい思い出であった。
メリナは当初、エディットの侍女としてレーゲンブルトにやって来た。
田舎暮らしに辟易して部屋に籠もりがちな女主人に成り代わって、領主館を切り盛りする気働きの優れた女性であると思い、またオリヴェル誕生後にはより一層気鬱になった妻の代わりに、かいがいしく赤ん坊を世話してくれていたので、ヴァルナルも信頼して彼女に任せることは多かった。
だが後のことを考えると、軽率であったというしかない。
ただし、その後悔はあくまでも息子・オリヴェルに対してのみだ。
「それは君がオリヴェルの世話をメリナ・バルトンにすべて任せて、息子の話をできるのが彼女しかいなかったからだ。つまらん邪推をするな!」
「邪推ですって? あの女が私に、これ見よがしにあなたとの仲を見せつけていたのを、ご存知ないの? はっきりと彼女は言ったわ! あなたが望んでいるのはオリヴェルと、世話人である自分だけ! 私のことなんて邪魔だと思っていると」
「そんなことを言った覚えはない」
「言った覚えはなくとも、メリナがそう言えるほどにあなたは彼女に権限を与えていたのよ! 本来の男爵夫人である私よりも、あの女に!」
「…………」
ヴァルナルは黙りこんだ。
そんな気持ちは微塵もなかったが、かつての自分が周囲に対して ―― 特に妻とその息子に対して無頓着であったことは間違いない。今、オリヴェルに対して父親としてようやくまともに接することができるのも、多分にミーナやマリーの協力があればこそだ。
今更ながらの後悔がヴァルナルの口を閉ざす。
元夫が怯んだとみるや、エディットはますます感情を昂ぶらせた。
再びミーナに怒りの矛先が向かう。
「ミーナさん! 貴女だって結局はメリナと同じでしょう? クランツ男爵夫人になるために、息子を利用して、この人に取り入ったのでしょう? でも残念ね。ヴァルナル・クランツにとって大事な女は、貴女じゃないの。リーディエ様よ」
その名前に、ミーナはすっと心が冷えた。
顔が固まったミーナを見て、エディットはうっすらと意地悪な笑みを浮かべる。
「違う! リーディエ様のことは……」
ヴァルナルが否定しようとするも、エディットは素早く遮って声高にまくし立てた。
「なによ! 本当のことでしょう!! あなたにとって大切に想う相手は唯一、リーディエ様だけよ。ずーっとずーっとリーディエ様だけ。『リーディエ様のように』『リーディエ様だったら』……何度言われたことか! その度に、私がどれだけみじめな気持ちになったかなんて、わからないでしょう!? あなたはせいぜいご自分の大切な初恋をお守りになって、一人で逝けばよかったんだわ。そうすれば私は、不幸にならずに済んだのに。いっそ子供なんか産まなければよかった。あなたとの子供なんか!」
もはやエディットは支離滅裂であった。
彼女はただ、長らく溜め込んできた怒り、悲しみ、鬱憤を晴らしたいだけだったのだろう。
だが思わず出た一言を、ミーナは許さなかった。
「いい加減になさい!」
鋭く冷えた声が、ビシャリとエディットを打つ。
エディットは口を開いたまま止まった。ヴァルナルから離れて一歩、進み出てきたミーナに得も言えぬ畏怖を感じて、思わず一歩下がる。
ミーナの薄紫の瞳に、憂いを帯びた怒りが揺らめく。
怒り心頭であるはずのこの時ですらも、一分の隙も無い端整な佇まいであった。ピシリと伸ばされた背筋から発せられる威厳は、元が平民であったなどと思えぬ高貴さを纏っている。
「エディット様。貴女がヴァルナル様と幸せな結婚生活を送れなかったことについては、ご同情申し上げます。けれど、もはや故人となった方を相手に張り合っても詮無いこと。悋気を起こしても見苦しいだけです」
「な、な、なによ……貴女だって」
オロオロしながらもエディットは必死に反駁を試みたが、ミーナは冷淡に遮った。
「私も夫からリーディエ様のことは聞きました。かの人によって見出され、今の地位を得たのであれば、傾倒するのも無理ないことです。まして初恋の相手であれば……忘れがたくとも仕方ありません」
かすかに苦みを含んだ表情になるミーナに、今度はヴァルナルの顔が固まった。
ミーナの初恋の相手が誰であるのかを考えると、得も言えぬ焦燥が胸を走り抜ける。
かすかな嫉妬に歯噛みする夫のことなど露知らず、ミーナはギロリとエディットを睨みつけた。
「それよりも。オリヴェル様を産みまいらせた貴女が、よもやご自分の息子を否定なさるようなことを仰言るなんて……私は血は繋がらずともオリヴェルの母です。そんなことを言う貴女を許すことはできません!」
ビシリと言われて、エディットは身をすぼめた。
ワナワナ震えながら、青かった顔は見る間に真っ赤に変わる。怒りと屈辱に涙をポロポロ零しながら、彼女は足早にバルコニーを出て行った。
ヴァルナルはしばし呆然と、去って行ったエディットを見送った。結局、あの女は何を言いたかったのだろうか……?
考えるヴァルナルの腕を、軽くミーナが掴んだ。
「心配なさっておいでですか? ……エディット様のこと」
「まさか。今更どういうつもりかと思ってただけだ」
ミーナは「そうですね」と頷いてから、やはりどこか不安そうに目を伏せる。
ヴァルナルは首を傾げた。
「……どうした?」
「私、怖かったですか?」
「うん?」
「オヅマにも、マリーにも……オリーにも時々言われるんです。本気で怒ったら、私は大層怖いって」
ヴァルナルは思わず笑ってしまった。
さっきまで自分ですらも圧倒されるほど、まるで正義の女神・セトゥルエンケの化身かのような神々しさであったというのに、今となればあどけない羞じらいを見せる。
問いに答えるよりも先に、そっと額にキスをすると、ようやくミーナの顔から不安が消えた。ニコリと笑う妻が愛しすぎて、強く抱きしめると、互いに乞うように口づけを交わす。 ―――
『あらあら。これはお邪魔しちゃいけないわね。退散、退散~』
事の成り行きを見ていたハンネは、あわててカーテンを閉めると窓辺から離れた。




