第四百六十四話 夜会にて ― エディットの牽制(1)
エディット・パレンは今は爵位すら持たぬ男の妻であった。本来ならばグレヴィリウスの夜会に来ることのできる身分ではない。にも関わらず彼女がこの場にいたのは、おそらく誰かの善意によるものであろう。
それが誰の思惑であれ、ミーナは今、ヴァルナルの前妻に対して、礼節をもって応対せねばならなかった。彼女は元クランツ男爵夫人であり、何よりオリヴェルの実の母親であるのだから。
「初めてお目にかかります、エディット様。ミーナ・クランツと申します」
ミーナは丁重に挨拶したが、エディットは落ち着かなげに視線をさまよわせ、目を合わそうとしなかった。何か言いたげに、チラチラとハンネを窺っている。
すぐさまハンネはエディットの無言の要求を察した。
「わたし、いない方がいいかしら?」
「そうね。お話があるみたいだから、別の場所に行くわ」
ミーナはハンネの耳打ちに小さく答えてから、エディットに場所を移すことを提案した。
「なにかお話があるようですから、静かな場所に参りましょう」
ヴェランダから移動して、人気のない小さなバルコニーを見つけると、ミーナはそこでエディットと改めて対面した。
よくよく見れば、やはり彼女はオリヴェルの母親に違いなかった。何より耳前に垂らした巻き毛の具合が、オリヴェルと同じだ。色は違うが、その強い癖のある髪は息子に確実に受け継がれていた。それに細面の神経質そうな顔と、少し自信なげな下がり気味の口の端は、出会った頃のオリヴェルを彷彿とさせた。
「それで、お話というのは?」
ミーナは緊張しているらしいエディットに、なるべく穏やかに声をかけた。実際には自分もまた緊張はしていた。なんといっても相手は夫の元妻であり、今はミーナにとって大事な息子となったオリヴェルの実母なのだから。
エディットは気まずそうに、まだ視線を合わせることなく、小さな声で言った。
「あなた……あなたの息子が小公爵様の近侍になったと聞きました」
「はい? オヅマのことでしょうか?」
「……どういうおつもりですか?」
エディットはジロリと上目遣いにミーナを見てくる。これもまたオリヴェルと似た青い瞳には、明らかな敵意があった。
「どういうつもり……というのは?」
「あなたと再婚したからといって、ヴァルナル・クランツの血を引いているのはオリヴェルであるはずです。クランツ家を継ぐのはオリヴェルでしょう? どうしてあなたの息子が、まるで継嗣であるかのように振る舞っているのです?」
「そんな……」
ミーナは困惑した。ミーナとしては当然ながら、クランツ家の継嗣はオリヴェルであると考え、オヅマにもそのつもりでいるようにと言い聞かせている。だが対外的には小公爵様の近侍となったオヅマが、クランツ家を継ぐものと考えられているのだろうか。まったくもって心外なことだった。
「とんでもないことです、エディット様。オヅマは元々騎士見習いとしてレーゲンブルト騎士団に在籍していたので、護衛として小公爵様に付くことになっただけです。クランツ家の跡継ぎがオリヴェルであるのは当然のことです」
ミーナが言い返してくると思っていたのだろうか。エディットは一旦ポカンとミーナを見つめてから、あわてたように睨みつけた。
「こ、言葉だけではどうとでも言えます。今、あなたの息子が騎士として小公爵様に付いているのなら、尚のことオリヴェルの出る幕なんてないじゃありませんか。あの子は病弱だし、どうせ騎士になんてなれやしません。あなた、あの子が何も言えないのをいいことに、ご自分の息子を跡継ぎにしようとしているのでしょう?!」
必死になって責め立てるエディットに、ミーナは怒るよりも先に呆れてしまった。
どうやら彼女は最初からケチをつけたかったらしい。あるいはそれも誰かの差し金なのかもしれないが、まるで見当違いのことを言い立てるエディットを、ミーナは少し哀れに思った。
「落ち着いてください、エディット様。先程も申しましたように、私はそのようなことは考えておりません。あなたのご心配はわかりますが……」
「小賢しいことを言って……私は騙されませんよ! クランツ家の跡取りはオリヴェルです。私はあの子の実母として、主張できるんですから!」
エディットの言葉は確かに母としては正当なものであった。だがそこに何かしらの我欲を感じて、ミーナは眉を寄せた。
先程来、エディットはオリヴェルの母であることの権利を主張するが、そのオリヴェルの近況について訊くことはしない。体の弱い息子だとわかっているのならば、まず母として一言、息子の体調について尋ねるぐらいはするものだろうに……。
「エディット様。貴女がオリヴェルの母君であることは間違いようもなく、私もそのことを尊重しているつもりです。ですが、オリヴェルは私にとっても大事な息子です。その気持ちは貴女にも負けないつもりです」
たとえ自らが産んだ子ではないにしろ、ミーナもまたオリヴェルを実の息子と思って接し、彼の健康には殊更気をつけている。
今回も公女サラ=クリスティアのお披露目であるので、世話人として帝都に赴かざるをえなかったが、出立に当たって、オリヴェルの食事を始め、生活全般の世話について細かに書き記し、ソニアやナンヌを始めとする信頼できる女中らに教えるなどして、出来うる限り万全の準備を整えて出てきたのだ。
オリヴェルにも「くれぐれも無理をしないように」「具合が悪くなったらすぐに言うように」と、くどくど言っていたら、とうとう「もう、しつこいってば。母さんは」と呆れられたくらいだ。
本来の母ならぬ自分を「母さん」と呼んでくれるようになるまでに、信頼を得ているという自負はある。
生真面目に述べるミーナに、エディットはたじろぎながらも真っ赤な顔で反論した。
「あ、あなたなんかに……色目を使って後妻になったような女が、私の息子を呼び捨てになど ―― 」
エディットの金切り声は途中で止まった。
ガタガタとバルコニーの窓が揺れ、破れんばかりの勢いで開くと、現れたのはヴァルナルだった。
「ミーナ!」
すぐさまヴァルナルはミーナを抱き寄せると、ギロリとかつての妻を睨みつけた。
「エディット……どういうつもりだ?」
「わ、わ……私は、ただ……オリヴェルのことを蔑ろにすることのないようにと……」
「オリヴェルのことを蔑ろにするな、だと?」
ヴァルナルは鸚鵡返しに尋ねながら、その声音は怒りでかすかに震えた。
「乳飲み子だった息子を置いて出て行った君に、そのようなことを言われるとはな」
痛烈な皮肉に、エディットはうっと詰まって目を伏せる。
一方、突然のヴァルナルの登場に目を丸くしていたミーナは、窓向こうでこちらを窺うハンネを見て、すぐに事態を理解した。おそらくハンネはあの後、ヴァルナルを探して事情を話したのだろう。
相当あわててやって来たのか、ヴァルナルの肩は激しく上下していた。
「ヴァルナル様……」
いつになく険しい表情の夫に、ミーナは安心させるように呼びかけた。
その声にヴァルナルはフッと息を吐き、表情をわずかに緩めた。
ここに来るまでの間にすっかり頭に血が上っていたが、聡明な妻のお陰で冷静さを取り戻す。
それでもミーナへの誹謗を許すわけにはいかなかった。
「私への非難ならば、反省をもって受け入れよう。だがミーナに対して言うのであれば、的外れも甚だしい。オリヴェルにとって、彼女は紛れもなく唯一無二の母親だ。彼女……それにオヅマやマリー……彼女の子供らがいなければ、オリヴェルが今のように元気になることもなかった。私もオリヴェルも、ミーナ達には感謝しかない。まして彼女がオリヴェルを蔑ろにするなど有り得ない。…………君と違ってな」
最後に低く付け加えられた言葉に、エディットは小さくなってうつむいた。
ミーナはエディットの肩が細かく震えるのを見て、ヴァルナルに取りなすように言った。
「あなた……ヴァルナル様。エディット様も母親として、心配していらしたのでしょう」




