第四百五十九話 夜会にて ― 公女の挨拶(2)
自分を直視する薄茶色の瞳に、ティアは固まって返事ができなかった。
ただ、この目の前の女性から目を逸らしてはいけないということだけは、強く思った。
伯爵夫人の質問は、この場に集う人々が皆、心中で思っていながら、あえて誰もが口にしなかったことだ。
彼らが注目しているのは、ティアの返答の内容だけではない。
公女にとって、いわば最大の恥辱ともいうべきことを公にされて尚、ティアがグレヴィリウスの公女としての面目を保てるのか、それだけの立ち居振る舞いができるのかを見定めているのだ。
ティアはゆっくりと息を吐きながら、礼儀作法の授業でミーナに言われたことを思い出した。 ―――
「サラ=クリスティア様。あなたはグレヴィリウス公爵家の公女として、いつも人から見られる立場となられます。彼らに礼を求めるのであれば、貴女がまず率先して自らの品位を示さねばなりません」
「礼儀作法というのは形だけを取り繕うためのものではありません。互いへの思いやりであり、身分の高きものほど、思いやりを示さねばなりません」
「礼とは自らを律し、同時に相手の敬意を引き出すために行うのです。これがきちんと出来ていれば、人は自然と公女である貴女に礼を尽くすでしょう」
ミーナは作法教師として厳しかった。それは単純に挙措や教養を求めるばかりではなく、大公爵家であるグレヴィリウスの公女としての自覚を持つことを特に強く説かれた。
一緒に講義を受けていたマリーなどは辟易して、母親に「そんなに言わなくっても……」とぼやいていたが、ミーナは頑なだった。
最初の頃はティアも自信がなくて、ひたすらへこむばかりの日々。
一体『グレヴィリウスの公女』として、自分が何をどうすればいいのかわからず、ミーナの求めることに応えられず、情けなくて泣くこともあった。
けれどある日、兄が言った。
「ティア、君がグレヴィリウスの公女になることがつらいと思うなら、いつでも言うといい。僕が父上に申し上げよう。アベニウスの家は既に離散してないが、どこか他の縁戚の養女として ―― 名目だけでも別の家の娘になれば、公女の責任を負う必要もない。だいたい『グレヴィリウスの公女』なんて聞こえはいいけど、公爵家に来たって、好き放題に散財できるわけでもないんだ。グレヴィリウスの行政官たちは、皆優秀で、財布の紐も堅いからね」
最後に冗談めかして笑っていたが、兄は心から言ってくれていた。その言葉はアドリアンが公爵家において、長く、つらい気持ちを抱えて生きてきたことを語っていた。
「お兄様は、公爵家を出ようと思ったことがおありなのですか?」
「僕は……無理だろう。僕はグレヴィリウスから逃れられないし、逃げる気もない。小公爵としての僕を支える人々がいるのに、彼らを捨て去るような不義理はできないよ」
話しながら兄の表情は少し翳りを帯びたが、すぐに払いのけるように笑うと、もう一度、ティアに言った。
「だけどティアはまだ間に合う。グレヴィリウスが重い枷になるなら、早くに出て行ったほうがいい。そのほうが幸せだ……きっと」 ―――
きっと ―― 今のティアよりも幼い頃から、既にグレヴィリウスの名を負って、兄は高座に立っていたのだ。今、ティアが求められているもの、あるいはそれ以上の覚悟を持って。
ティアはグッと奥歯を噛みしめると、一歩、進み出てブルッキネン伯爵夫人と対峙した。
「アドリアンお兄様への謝罪は済んでいます。そのときに、母の罪を私が負う必要はないと、仰言ってくださいました」
「小公爵様はお優しい方ですから、貴女を気遣ってのことでしょう」
ツンと言い返すブラジェナに、ティアはミーナから教わった通り礼儀正しく、丁寧に言葉を重ねた。
「わかっております。でも、お兄様のお言葉に嘘はないと思います。伯爵夫人はお兄様が、ただ私を憐れんで慰めるためだけに、その場限りの……心にもないことを仰言ったと思いますか?」
「随分と小公爵様についてご存知であられるように仰言いますのね、公女様。ですけれど、貴女と小公爵様が初めて会ってから、まだそう月日は経っていないように思いますわ。今のお言葉も、ただ貴女がそう思うというだけのことでは?」
「ブルッキネン伯爵夫人! 少々口が過ぎるのではないか?」
ヴァルナルがやや声を荒げて窘めると、ブラジェナはキッと、かつての仲間に厳しい眼差しを向けた。
「クランツ男爵! 貴方は小公爵様をお守りするという最も大事な任に就いていながら、その小公爵様のお命を狙った女の娘と同じ館で過ごさせるなど、どういうおつもり?」
「そのことについては……!」
反論しかけるヴァルナルに、すかさずブラジェナは痛いところを突いてくる。
「一昨年のことも然り! 小公爵様だけでなく、うかうかと自らの息子まで誘拐されるなど。グレヴィリウス最強とも呼び声高いレーゲンブルト騎士団の長が、そのような為体でどうします!?」
「…………」
ヴァルナルはうっと詰まった。
二年前の誘拐事件のことを持ち出されては、言い返しようもない。
反省と悔しさでうつむくヴァルナルの手を、そっと握ったのはミーナだった。
驚いて見返すヴァルナルに、ミーナはニコリと微笑みかける。手を離すと、しずしずと前に進み出て、優雅な所作で公爵に一礼した。
意を汲んだ公爵が、ゆっくりと瞬きして了承の意を示すと、ミーナは柔和な笑みをたたえ、ブラジェナに向き合った。
「失礼致します、伯爵夫人。私は公女様のお言葉通りであると思います」
ミーナは脱線しかけた話題をやんわりと元に戻し、穏やかな口調で自らの考えを述べた。
「伯爵夫人の思い出の中で、小公爵様はまだお小さくか弱き幼子でいらっしゃるのかもしれませんが、今は日々勉学を重ねられて、賢く逞しく成長なさっておいでです。公爵家に入られて間もない公女様に対しても、兄として優しく、誠実に導いて下さっています。そのことについては、伯爵夫人もご子息からお聞き及びではございませんか?」
息子マティアスのことを出されて、ブラジェナは少し苛立った。
実のところ、息子からも言われていた。
数ヶ月前、帝都へ向かう小公爵の一行がシュテルムドルソン(*ブルッキネン伯爵家所領地)に立ち寄った際に、久しぶりの親子の団欒で、ブラジェナがサラ=クリスティア公女について苦言を呈すると、息子は珍しく母の意見に異を唱えたのだ。
「母上は少し偏見が過ぎます。公女様は小公爵様にも真摯に謝っておられました。普段の過ごし方も、母上が心配するような横柄なところなどありません」
ブラジェナは少し驚いた。
息子は幼い頃からブラジェナの隣でつぶさにその仕事ぶりを見て、次期領主としての心得を叩き込まれた。そのせいか母の言う事は何でも聞くいい子で、その主体性のなさが、ブラジェナとしては心配でもあり、物足りなくもあった。
だが実際に反対意見を述べられると、自分でも意外なほどにブラジェナは傷つき、同時に腹が立った。初めて息子相手に口論になり、最終的には夫に「少し落ち着きなさい」と、諭されたほどだ。
そのためか、今、息子のことを言われるのは、非常に敏感になっているブラジェナの癇を刺激するのだった。




