第四百五十七話 夜会にて ― 噂の男爵夫人(3)
「あら、ヴァルナル・クランツ。そんなことを言う貴方の真意を私が知らないとでも思って?」
「うん? なにがだ?」
「恥ずかしがりだとか言って、美人の奥方をマントの中にでも隠しておきたいのでしょう? でも残念。ここにいる者達は全員、今日、クランツ男爵の噂の奥方の美しさを目撃してしまったわ。一緒にオヅマもいれば、きっと貴方かすんでしまって、それこそオデル子爵夫人じゃないけど、見えなくなっても仕方ないわね」
すっかり昔の ―― 公爵夫人の下、皆で毎日忙しく軽口を叩きながら仕事をしていた頃に戻って、ブラジェナはまくしたてる。
ヴァルナルはもはやあきらめ顔になり、困ったように見上げてくるミーナに微笑みかけた。
その顔を見たブラジェナはハッと息を呑むと、いつの間にか隣にいたルーカスの腕をグイと引っ張った。
「ちょっと……あの朴念仁のヴァルナル・クランツが微笑んだりしてるじゃない。リーディエ様以外の女相手に。エディット(*ヴァルナルの元妻)との結婚式だって、ニコリともしなかった男が。やっぱり、男ってのはなべて美人に弱いものなのね!」
ルーカスは黙って頷くのみだったが、小声で反論したのはハンネだった。
「あら、ブラジェナ様。ミーナ様の顔貌だけで、クランツ男爵がメロメロになったと思われます?」
ブラジェナはハンネをチラと見てから、またミーナに目を移す。
口を開きかけたときに、公爵閣下の入来を告げる音楽が流れ始めた。
ゾロゾロと貴族たちは高座の方へと移動していく。
ルーカスが公爵警護の為に先に行ってしまうと、ブラジェナとハンネは二人並んで歩き始めた。
「じゃあ、顔だけ綺麗なお人形さんでないところを見せていただこうかしら」
ヴァルナルのエスコートで優雅に歩いていくミーナの後ろ姿を見つつ、ブラジェナが意地悪くつぶやく。
「まぁ、ブラジェナ様ったら。さっきだってミーナ様は、うまくあしらっておられましたよ」
ハンネが少し茶化して反論すると、ブラジェナの口元には皮肉げな笑みが浮かんだ。
「どうかしら? オデル子爵夫人は恥を知る人間だから通用したんでしょうけど、恥も外聞も知らぬ者であれば、あんな婉曲に注意されてもキョトンとするばかりだわ。あのとき、周りで助け船を出したのは、貴女でしょう? ハンネ嬢。随分と入れ込んでおいでね、ヴァルナル・クランツの新しい妻女に」
それこそブラジェナの言う通り、オデル子爵夫人が注意を受けたと自覚しなかった場合の保険として、ハンネは群衆に紛れて聞こえるように非難したのだ。『オデル子爵夫人は、クランツ男爵が見えなかったのかしら?』と。
ブラジェナはその辺りをしっかり観察していたらしい。
「意地悪ですわね、ブラジェナ様」
ハンネは口を尖らせてつぶやいてから、ブラジェナに問いかけた。
「さっきもお話しておられましたけど、貴女はオヅマにも会っておいでなのでしょう? でしたらミーナ様のお人柄については、彼から聞いて十分ご存知のはずでは?」
「オヅマからあまり母親の話は聞いていないわ。あの年頃の男の子が、ベラベラと母親のことを他人に話すわけもないでしょう?」
素っ気ない返事に、ハンネは内心首をひねった。
先程からブラジェナの態度はミーナに対してどこか棘がある。好戦的と言ってもいい。同じ小公爵の近侍の母として、対抗心でも持っているのだろうか。
いずれにしろミーナの友達を自認するハンネとしては、あまり面白くなかった。それでも相手は伯爵夫人であるので、慎重に言葉を選ぶ。
「でも……今話してみて、ミーナ様の為人については十分におわかりになられたのでは? 明敏な伯爵夫人であれば」
「そうね。人並み以上にお美しくて、自分に喧嘩をふっかけてきた相手に対してまでも品良く接しておいでの、大層お優しい方だということはわかったわ。でも、あの女の娘の世話係だというんですもの。そう簡単に気を許すことはできないわ。優しいばっかりで、ズル賢い小娘にいいように振り回されて、公女がすっかり我儘なお嬢さんにでもなったら、それこそ小公爵様にとってご迷惑になりかねないんですからね。しっかり教育していただかないと!」
話すうちにどんどんと剣呑とした表情になるのは、ブラジェナの脳裏に浮かぶ在りし日のペトラへの嫌悪のせいだろう。
ハンネはブラジェナの一方的な言い分に鼻白んだ。
「ティア……サラ=クリスティア様は、可愛らしくて、気立てもいい子ですよ」
少しばかり非難を滲ませて言い返すと、ブラジェナは軽く首を振ってあきれたように溜息をついた。
「やれやれ。どうやらあなた達の頭の中には、脳天気なお日様を浴びて育ったヒマワリが咲いているようね。小公爵様の近くに、あの女の娘がウロついているというだけでも、どれだけ危険であるのかわかっていないんですから。いつ、あの女みたいに小公爵様を狙って刃を向けるか、わかったものじゃない」
「母親と娘がまったく同じというわけではありませんでしょう」
「どうかしら? 母と娘というのは、父と息子よりも似るものよ。ましてあの小さな館で母子二人だけで長く暮らしていれば、散々、小公爵様への恨み言を聞かされて育ったはずよ。それこそ皆の前でだけ、よい子の仮面を被るなんてことは、あの女が公爵閣下の前でだけ猫を被っていたのと同じこと。母親からみっちり仕込まれていることでしょうよ」
もはや明らかな侮蔑をこめて、ブラジェナは断定する。
ハンネは半ばあきれて聞き返した。
「まぁ! じゃあミーナ様も、クランツ男爵も騙されていると?」
「男爵夫人はともかく、ヴァルナル・クランツであれば、子供で、しかも女の子という時点で無条件に信じるでしょうよ。そこに哀れみめかした涙でも浮かべれば、もう効果覿面」
「あらま。じゃ、公女を助けたオヅマ公子も、公女と一緒に遊んでいらしたご子息も、騙されているってことになりますわね」
ハンネが精一杯の皮肉で返すと、ブラジェナは大袈裟に肩をすくめた。
「オヅマも息子も、まだまだ未熟者ですもの。女というのが、嘘泣きする生き物だということも知らないでしょうよ。ま、転ばぬ先の杖よりも、今は転んで不味い砂を噛んだほうが、長い人生の糧にはなると思って、あえて諫言は控えましたよ。どうせあの時期の子供というのは、親の言うことなど素直に聞くはずもないでしょうしね」
唖然とするハンネを尻目に、ブラジェナは人々の間を縫って、さっさと歩いて行く。
ハンネは追いかけず、心の中で白旗を揚げた。
一を言えば十以上になって反論してくるブラジェナの相手は、さすがに荷が重い。今更ながらに、この女傑を相手に余裕綽々としていられる兄を尊敬する。そのせいであんなにクセの強い『油断ならないキザ野郎』になってしまったのかもしれないが。
「本当に……これだから夜会って」
ハンネが溜息をつきながらぼやいていると、隣をやや急ぎ足で男が抜き去っていく。
何気なく見れば、ハヴェル・グルンデンだった。アドリアンに次ぐグレヴィリウス公爵家の後嗣候補。
思わず行く先を見ていると、ブラジェナに声をかけて、二人何事か会話している。だが彼らは二言、三言言葉を交わすと、すぐに分かれて人の群れに紛れた。
ハンネは思いきり渋面になって、再びぼやいた。
「本当に夜会って……厄介で面倒よ……」
ボソボソ言ってから、少しだけ背伸びして高座近くに立つクランツ男爵とミーナを見る。
ミーナの顔は初めての夜会とは思えぬほど、穏やかで落ち着いていた。その隣のヴァルナルは、美しい妻に見蕩れてまったく愛情を隠すこともない。
やれやれ、とハンネは肩をすくめてから、少しだけ期待をこめてつぶやいた。
「……でも、面白いことも起こるかもしれないわ」




