第四百五十六話 夜会にて ― 噂の男爵夫人(2)
「……あっ」
オデル子爵婦人は、柔らかな受け答えの中に含まれた言外の意味を悟って、思わず声を上げた。
途端に周囲がヒソヒソとささめく。
「まぁ、オデル子爵夫人はクランツ男爵が目に入らなかったのかしら?」
「まずは男爵に挨拶するが礼儀であろうに」
多くの貴婦人は夫やパートナーの随伴で来るが、その場にいない場合は仕方ないとして、夫婦が一緒にいる場合はまず夫に挨拶するのが礼儀であった。
ミーナはまずオデル子爵夫人への敬意を表した上で、彼女がヴァルナルに対して非礼であることを指摘したのだ。
相手の尊厳を傷つけることのない嫋やかな物言いであったが、それは平民上がりの男爵夫人を馬鹿にしようと待ち構えていた者たちを、たじろがせるに十分だった。
ザワリと静かに色めき立つ人々を見回して、ルーカスはフッと笑い、ハンネはフンと勝ち誇ったように胸を反らした。
特に先鋒としてオデル子爵夫人を送り込んだヨセフィーナ・グルンデン侯爵夫人は、完全に出鼻をくじかれた。
オデル夫人は助けを求めるようにヨセフィーナを見たが、彼女を始め取り巻き達は誰も目を合わせることなく、当然、誰一人としてオデル夫人に助勢する者はなかった。
「も……申し訳ございません、クランツ男爵。非礼をお詫びいたしますわ」
オデル子爵夫人はもはやいたたまれず、顔を真っ赤にして詫びたが、ヴァルナルは鷹揚に笑った。
「いやいや。仕方ございません。我が妻が美しいゆえ、子爵夫人が礼を忘れて私よりも先に声をかけてしまう気持ちは、十分に理解できます」
「まぁ、またそのようなご冗談を……」
ミーナが困りつつ頬をかすかに染めると、その羞じらった姿に、またどこからか溜息がもれる。
「ハッハッハッ! やれやれ!! 戦場の悪鬼も形無しの有様でありますな、クランツ男爵」
大笑いして声をかけてきたのは、テルン老子爵だった。今年も意気軒昂な老人に、ヴァルナルはやや仰け反りつつも丁重に挨拶した。
「久しいですね、テルン子爵。いよいよ来年は一旬節を迎えられるのですかな?」
「いやいや! あと三年ほどは長生きせねば!! 孫がまだまだ襁褓もとれずにおるような、ヒヨッコであるのでなぁ。レーゲンブルトにて少しは逞しくなっておればよいのだが。いや、その折は長らく世話になりましたな。男爵夫人」
大声を少しだけ和らげて、テルン子爵が軽く辞儀をするとミーナは軽く腰を屈めて、優麗な貴婦人の礼で挨拶した。
「初めてお目にかかります、テルン子爵。チャリステリオ公子には同じ近侍である我が息子のオヅマのみならず、同じく息子のオリヴェルと特に仲良くしていただき、大変嬉しく存じます」
「いやぁ! 近侍となったからには、それこそオヅマ公子などのように、剣を持って主を守るが務めというのに、どうにも野暮ったいことです。父親は騎士であったので期待しておったのですが」
「チャリステリオ公子は、子爵と同じく技官となるのがよろしいのでは?」
ヴァルナルがそれとなく孫自慢に持っていかせようと水を向けたが、子爵はそれこそフンと不満げに鼻を鳴らす。
「まさか! あやつはコンパス一つまともに扱えません。計算も間違いが多いし……まったく、箸にも棒にもかからぬとはあやつのような者のことですわ」
この場にテリィがいたら、恥ずかしさで涙目になったことだろう。
ミーナは数ヶ月、レーゲンブルトで過ごした柑子色の髪の、少しばかり不器用な少年のことを思い出して、とりなすように言った。
「失礼ながら、私はそのようには思いませんわ。チャリステリオ公子の博識と、芸術への造詣の深さには、私も息子も学ぶところが多くございました。公子のような方においでいただき、北国の辺境であっても新たな文化の息吹を知ることができて、大変有難いことでございました」
テルン老子爵は目を丸くしてまじまじとミーナを見つめたあと、ニッコリと笑った。フサフサした白い眉毛の奥の、やや緑がかった茶の瞳は温かい光を浮かべている。
「いやはや……優雅なる男爵夫人のお言葉であれば、年を取って偏屈となった爺も逆らえぬ。まことクランツ男爵は、麗しくも賢い奥方を持たれたものでございますな」
テルン老子爵の話が終わったとみるや、ヨセフィーナがまた取り巻きの一人に目配せする。
ゴクリと唾を飲み下して、某男爵夫人が一歩足を踏み出したところで ―― 。
「あら! テルン子爵のお孫さんがレーゲンブルトでお世話になったというなら、私からも御礼を申し上げねばなりませんわね!」
割って入るように響いたのは、張りのある女の声だった。
ヴァルナルも老子爵も、すぐにその声の主が誰であるかわかり、二人してチラと目線を交わした。口元にやや困ったような苦笑いが浮かぶ。
集う人々の間から颯爽と現れたのは、艶のある金髪をキリリと纏めた、強い眼差しの貴婦人であった。ベシリ、と閉じた扇を手のひらで打てば、今しも会話に入ろうとしていた某男爵夫人は身をすぼめて引き下がる。
物見高い見物人を押しのける勢いで現れた貴婦人は、ヴァルナルとテルン子爵の前で止まるとニコリと微笑みかけた。
「お久しぶりにございますわね、クランツ男爵、テルン子爵」
「お久しぶりにございます、ブルッキネン伯爵夫人」
「今年は来られたようですな。旦那様は相変わらずかの?」
男たちからの挨拶を軽く受けて、ブラジェナ・ブルッキネン伯爵夫人はバッと扇を開くと、パタパタ煽ぎながら言った。
「えぇ。今年はなんでも珍しい蝶の群れが海岸沿いの原野に来ているらしくて……もう、あの人のことはよろしいのよ。それよりも初めまして、クランツ男爵夫人。私はブラジェナ・ブルッキネン。マティアスの母親でございますわ。先だっては長くレーゲンブルトにて面倒をおかけしましたわね。息子からの手紙で、夫人にはとてもお世話になったと聞いております。育ち盛りの男の子ばかりで、さぞ大変でしたことでしょう?」
ミーナは早口なブラジェナに返事する間もなかったが、ようやく問われてにこやかに答えた。
「いいえ。マティアス公子はとてもお優しくて、頼りになるお坊ちゃまでいらっしゃいますわ。レーゲンブルトを発つ前には世話になったからと、図書室の整理を率先して行ってくれました。それに、私こそ伯爵夫人には御礼を申し上げねばなりません。去年の暮れには、我が息子のオヅマが伯爵夫人のもとでお世話になりました」
「あぁ! そうでした!! 私たちは、既にオヅマ公子のお陰で深い縁を持っておりましたわね! フフフッ」
不意にブラジェナは噴き出すように笑う。ミーナが小首をかしげると、
「あら、ごめんなさい。いえね、オヅマ公子に会ったときから、母親である貴女はどれほどに美しい方であろうかと想像しておりましたの。そうして今日初めてお目にかかって……」
ブラジェナは言いかけて、じっとミーナを見つめてから、溜息まじりに首をゆるゆると振った。
最前から様子を見ていたルーカス・ベントソンが、ブラジェナに話の先を促す。
「初めてクランツ男爵夫人を見ての感想は?」
「美人でいらっしゃるわ! 思っていた以上に」
あけすけに叫ぶブラジェナに、ミーナはさすがに顔を赤くする。
「そのようなことは……」
「伯爵夫人、そうも声高に言わないでくれ。妻は恥ずかしがりなんだ」
ヴァルナルがそれとなくミーナを庇うように進み出ると、ブラジェナはややあきれた眼差しでジロリと見てから、ニヤリと笑った。




