第四百五十五話 夜会にて ― 噂の男爵夫人(1)
オヅマらがアカデミーの試験に向けた勉強に四苦八苦していた頃、帝都のグレヴィリウス公爵邸では恒例の夜会が開かれていた。
例年通りの賑わいの中にも、今年ばかりはいつもと違っていることがあった。それは人々が口にする噂がほぼ一つの話題に集中していたことだ。
「とうとう公爵閣下は、あの女の娘を公女とされたそうですよ」
「あの女?」
「ペトラ・アベニウスですよ。公爵閣下に見向きもされなかった、リーディエ様の出来損ない。とうとうペトラが死んで、残された娘が公女として認められたんですよ」
「本日がお披露目だとか。どのような公女様でいらっしゃるのでしょう?」
「長く下町のわびしい館で、あの母親と二人で暮らすばかりであったのです。お可哀相ですけど、まともな教養をお持ちではないのでしょうねぇ」
「それが、その公女の教育係となったのが、クランツ男爵夫人だそうですよ!」
「クランツ男爵夫人? あら? クランツ男爵は確か離婚されて……」
「あらぁ! アナタ、昨年おみえでなかったからご存知ないのね。再婚されたんですのよ。元は息子の世話係であった、平民の女と! そんな女に教育を任せるなど……小公爵様もそうですけれど、公爵閣下の愛情の程度がわかろうというものですよ」
「まぁ、おいたわしい」
「クランツ男爵の新たな奥方も、いきなり貴族となって戸惑っているところに、そんな大役を任されてはさぞ心労であったことでしょうね。ということは、今回のお披露目にも付き添いで?」
「まあぁ……。去年は貴族となったばかりで、とても体裁を整えられぬと引っ込んでおられたようですけれど、今年は公女様の世話を任された以上、出てこぬわけにもいかなくなって……まだまだ貴族としての素養も十分ではいらっしゃらないでしょうに、お可哀相なこと」
集う人々は、言葉の上だけは噂の人物への同情を滲ませつつ、実のところ、これから自分たちの前に現れるであろうその男爵夫人を、どのようにいたぶってやろうかと待ち構えている。
そんな人々を白けた目で見ていたのは、兄のエスコートで夜会に潜り込んだハンネ・ベントソンだった。
「まぁーったく。これだから嫌いなのよね、夜会は。適当なことばーっかり言っちゃってさ」
隣にはハンネをここに連れてきたルーカスが、澄まし顔でワインを飲んでいる。
「貴族ってのは基本的に足の引っ張り合い。虚勢の張り合い。通常運転さ」
「お兄様の性格が悪くなるのがよーくわかるわ」
「性格が悪い兄に、平気で憎まれ口を叩く妹の気持ちはわからんよ」
「憎まれ口ですって? 私がそんな可愛い素振りをお兄様に見せると思って?」
「お前はいつでも可愛いさ、ハンネ。願わくば、その可愛げをわかってくれる奇特な男が、まだこの世に存在することを証明してもらいたいものだ」
「うぅぅ~ッ!!」
兄と妹が不毛な応酬を続けていると、ザワッと人々が静かに色めき立った。
場を和ませるための緩やかな音楽と共に現れたのは、噂の人とも言うべきクランツ男爵夫人・ミーナだった。
「あら、こうしちゃいられない」
ハンネは兄からサッとワインを取り上げると、残りをグビリと飲み干し、空になったグラスを兄へと押しつけた。
「じゃ! 行ってきまーす!」
ルーカスが唖然としているうちに、群がる人の間をスイスイと縫うように歩き去って行く。
ルーカスはやれやれと溜息をついた。
日頃、こうした夜会に出たがらない妹であるのに、めずらしくエスコートしろと言ってきたので何事かと思えば、どうやらミーナに加勢するつもりらしい。
「お前の助けがいるとは思えないがな……」
そう言いながらも、ルーカスも立ち歩く従僕のトレイに流れるように空のグラスを置いて、また再びテーブルからワインを取り、ざわめきの中心地へと向かった。
「サフェナ=レーゲンブルト領主・クランツ男爵ご夫妻、入場也ィ」
客の入場を告げる従僕の声は、いつもであればざわめく広間の中で、ただの雑音の一つとして無視されるのが常であった。
しかしその名が響いた途端に、人々は会話を止めた。
いよいよ噂の渦中にある人物がやって来るのだと、彼らの眼差しは一様に好奇を帯びる。
さぁ、どう品定めしようか……と、男らは舌なめずりせんばかりに、婦人らは扇で意地悪く歪んだ口元を隠して、件の人物の登場を待った。
しかし剛健なるクランツ男爵と共に現れた男爵夫人を見た途端、人々は思わず息を呑み、用意していた皮肉も一瞬消え失せてしまったようだった。
瞳の色に合わせた薄紫のドレスに身を包み、結い上げた淡い金髪には以前ヴァルナルから贈られた白陽石の髪飾りと、散りばめられた真珠。
全体的には落ち着いた質素な装いながら、ドレスの上をふんわりと覆う白のレースは優雅で、夜会に相応しい華やかさも備えている。
異国の血を感じさせるやや浅黒の肌も、白粉を塗りすぎて首筋に罅割れが生じているような貴婦人らに比べると、つややかな美しさを纏い、なによりヴァルナルと共に連れ立って歩く優美な姿は、およそ元平民であったとは思えぬ気品であった。
「……これは、クランツ男爵が骨抜きにされるも仕方ない」
「かように美しい女性とは……」
「とても平民でいらしたとは思えませんわ……」
ルーカスも言うように、日頃、多くの場合において他人の揚げ足をとるか、婉曲な自慢話に終始する彼らの口舌は、クランツ男爵夫人ミーナの美しさに、ひととき毒気を抜かれてしまったようだった。
その中でいち早く我に返ったのは、グルンデン侯爵夫人ヨセフィーナであった。
現公爵の異母妹であり、小公爵アドリアンの叔母。一部から『サコロッシュ(*グルンデン侯爵領)の女狐』と呼ばれる彼女の目標は、息子のハヴェルを公爵家の後継者とすること。
その彼女にとって、今の状況は甚だ不本意であったのだろう。
ただでさえ平民の成り上がりと馬鹿にしていたヴァルナル・クランツが、今や小公爵アドリアンの後見として地位を築きつつあるばかりか、彼と同じように、つい先頃まで使用人風情でしかなかった女が、男爵夫人となって小公女の世話係の地位につくなど、誇り高い彼女にとっては許されざることであった。
本来、この夜会はクランツ男爵夫妻への洗礼を与える場でなければならない ――― 。
ヨセフィーナは口を隠していた扇を勢いよくパシリと閉じた。
侯爵夫人の意図に気付いた取り巻きの一人が、あわてて白々しい笑顔を顔に貼り付かせ、ミーナに声をかけた。
「初めまして、クランツ男爵夫人。私はフランツェン・オデルの妻、マイヤー・オデルと申します。ようやくお会いできて嬉しゅうございますわ。昨年はいらっしゃいませんでしたものね。仕方ございませんわ。グレヴィリウスの夜会に来るなど、使用人であった貴女にはさぞかし荷が重いことでしょうしねぇ」
いかにも気の毒そうに言いながら、彼女が男爵夫人であるミーナに対して先制攻撃を仕掛けたのは明らかだった。
ヴァルナルはオデル子爵夫人がヨセフィーナの子分の一人であるとは知っていたが、今この場で挨拶してこられたのを追い払うこともできない。
しかもミーナは既ににこやかに答えていた。
「初めてお目にかかります、オデル子爵夫人。親しくお声がけを頂いて、新参の身には有難い限りにございます。ふつつかなる私を伴侶として選び、このような晴れがましき場に連れ出してくれた我が夫には感謝しかございません」




