第四百四十八話 アドリアンの心配事(2)
「やっぱり君を近侍にして良かったよ」
「へっ? なんだよ、いきなり」
「僕一人だったら、ヘルフリッド公子を疑うことしかできなかっただろう」
溜息と、少しばかりの悔しさを滲ませて言うアドリアンに、オヅマは紅茶を一口含んでから、軽い口調で言った。
「まぁ、そんなに警戒しなくてもいいと思うぜ。確かにさっきの出歯鼠野郎(=オットー)みたいなのと毛色が違うもんだから、お前もやりにくいかもしれないけど、ヘルのオッサンもある意味わかりやすい人間だろ」
「そう? 僕にはさっぱり理解不能だよ」
「何を考えてるかまでは、俺だってわかんねーよ。でも、あのオッサンはたぶん自分が得するかどうかで判断するタイプだよ。損得勘定っていうのか……見た目も商人っぽいもんな。なんか……悪徳商人っぽい顔してる」
アドリアンはヘルフリッドの毬栗頭と、慇懃な笑顔を思い浮かべた。あれで揉み手でも始めたら、確かに商人と間違えそうだ。思わずクスリと笑ってしまう。
「確かに、そうかもしれない。じゃあ、今は僕に利用価値があるってことか」
「ま、そういうことだろうな」
「で、利用価値がなくなったら、あっさり捨てる。……より良いものがあれば、そちらにつくことも有り得るってことだ」
アドリアンがやや自嘲を滲ませて言うと、オヅマは冷たく言い放った。
「その場合は、そういう選択をしたオッサンが後悔するだけのことさ。安易にお前を利用したツケは支払ってもらわないとな」
薄紫色の瞳に酷薄な光が宿る。
アドリアンは困惑して口を噤んだ。
最近のオヅマは時々こんな目をする。容赦のない、冷酷な、処刑人のような目。
「……そんなこと、しなくていい」
息苦しさに喉が詰まりそうになりながらアドリアンは言ったが、オヅマの眼差しは冷たいままだった。
「どちらかにつくってことは、裏切った場合の報復も含めて考えるのが当然だろ」
「先走りしすぎだよ、オヅマ。…………なんだか君、最近、時々おかしいぞ」
「うん?」
「毒見の当番だって、全部自分がするとか言い出すし」
毒見の当番は近侍が交替ですることになっていたのだが、レーゲンブルトでの『腐った茶葉騒動』以後、オヅマは毎回自分がすると言い出した。当然、昔ながらの慣習を重要視するマティアスと、珍しく本気の、つかみ合いの喧嘩になったのだが、結局、オヅマは意見を通してしまった。
「俺はさっさと食いたいんだよ。ちんたらちんたらと、テリィさんが毒見のときなんて、せっかくのスープも冷めちまってるじゃねぇか。俺はな、お前らと違って育ちが良いもんですから、半分腐ったようなモンでも何でも食ってきてんだ。耐性があるんだよ、耐性が」
それでもマティアスは反対していたのだが、食事時になったら、それこそ毒見用の皿を給仕係から直接掻っ攫っていくようになり、それが五日続いた時点でアドリアンも説得をあきらめた。
実際のところ、現状において食事に毒が盛られる可能性は低い。もしそんなことがあれば、まず疑われるのはハヴェル一派で、彼らとしてもそんなわかりやすい工作を仕掛ける愚行は避けるはずだ。
先だっても、カーリンを利用したオルグレン家の策謀と、ティアら母子の養育費横領のことで、ルーカスからきつめの警告を受けたばかり。馬鹿でなければ学習したはずだ。中途半端な謀略は、自らの足元を掬うことになる……と。
ルーカスは詳しく語らなかったが、アドリアンは事件の顛末を聞いて、おおよその事情を推察した。
普段は軽妙洒脱な女好きの騎士団長代理は、いざとなれば手段を選ばない冷酷非情な男でもある。彼が頼もしい味方であることに安堵しつつも、同時に敵となった場合を仮定するとゾッとなった。
グレヴィリウスの『真の騎士』であり、公爵の右腕。
彼はオヅマの怜悧で、場合によっては容赦ない性状を分かった上で、自らと同様の役割を持たせようと考えているのだろう。
本来であれば、先々のことを考えてくれるルーカスに感謝し、オヅマの存在に安堵すべきなのだろうが、正直なところアドリアンとしては複雑だった。
「君に近侍になってほしいと頼んだけど、無理はしないでくれ。僕は君に、そういう……不穏なことを頼みたくはない」
「お前が命令する必要はない。奴の運命は、奴が決めるだけさ」
オヅマが軽い口調で答えるのが、アドリアンには一層不気味で、不安だった。
あのとき ―― 誘拐されたマリーとオリヴェルを助けるために、ダニエル・プリグルスを殺したとき、初めての殺人に身を震わせていたオヅマ。
稀能を修得し、剣の腕が上がるに従って、その罪悪感が希薄になっていっているような気がしてならない。
「オヅマ……なんだか、君が心配だよ」
「…………なにが?」
「…………」
アドリアンは黙りこくった。
オヅマの薄紫色の瞳は澄んでいて、いつも真っ直ぐな正しさを示す。けれど自らの欲得を映さぬ瞳は無情だった。いざとなれば敵対者を葬ることも厭わない。そんなオヅマの硬骨とした信念は頼もしくもあったが、同時に痛々しくて、苦しい。しかもその覚悟をさせたのは、他ならぬ自分なのだ……。
一方、オヅマはオヅマで、沈んだ表情のアドリアンを見ているうちに、奇妙な既視感に眉を寄せた。
またユラリと夢の影が揺らめき、囁く。
―――― 貴方は性急過ぎます。時々……ひどく心配になります……
「うッ!」
バチンと目の前で火花が爆ぜたような衝撃に、オヅマは呻いて頭を押さえた。
「どうした!?」
アドリアンが驚いて立ち上がる。
オヅマはすぐさま手で制した。
「何でもない。ちょっと……頭が痛くなっただけだ」
「医者に診てもらったほうがいい」
「大丈夫だよ。勉強のし過ぎだな、たぶん。ちょっと寝るわ。飯の時に起こしてくれよ」
オヅマはそれ以上アドリアンに何か言われる前に、さっさと隅の小部屋へと向かうと、ベッドに倒れ込んだ。
アドリアンはしばし呆気にとられていたが、あわてて自分の寝室から毛布を取ってきて、寝ているオヅマに掛けてやる。眠っている表情は落ち着いていたが、顔色はあまり良くなかった。
「…………本当に、心配だよ」
アドリアンはつぶやいて、そっとその場を後にした。




