第四百四十二話 帝都を前に(2)
「うわぁっ!!」
いきなり声をかけられたロビン・ビョルネ医師は驚きのあまり思わず大声を出したが、月の光で、そこにいるのがオヅマだとすぐにわかったらしい。
「オヅマくん! あ、いや……オヅマ公子、どうしてそのようなところに?」
「そりゃこっちの台詞だよ。ビョルネ先生も寝られないのかい?」
「君もですか? 睡眠用の薬香をお渡ししましょうか?」
「いらない、いらない。たまたま夢見が悪かったのかして起きてみたら、なんか気分が落ち着かなくて……どうでもいい昔のことばっか思い出しちまって」
「ハハ、同じようなものですね」
そう言ってビョルネ医師は少し寂しげに微笑んだ。
「同じって、先生も嫌な夢でも見たのか?」
「…………えぇ。昔の夢を。川の音がするせいでしょうかね」
「それって」
オヅマは言いかけて、一瞬止まった。
レーゲンブルトでトーマスから聞いたことを思い出し、口を噤む。だがビョルネ医師はオヅマのその反応で、なんとなく察したようだった。
「もしかして、トーマスが言ったんでしょうか? ……エドガーのことを」
「あ……うん」
帝都に行くことが決まって以降、また例の夢を見ること数度。夢に出てきた『エドガー・ビョルネ』のことが気になって、オヅマはトーマスに尋ねた。
◆
「なぁ、トーマス先生。もしかして、エドガーって人と親戚か何か?」
そのとき、動きを一瞬止めたトーマスがどんな顔をしていたのかはわからない。だが振り返った彼に、いつものふてぶてしさはなく、めずらしくひどく困惑している様子だった。
「どうして君がエドガーのことを?」
「あ、いや……その……ちょっと聞くことがあって」
「誰から?」
「うーん……誰だったかな」
濁すオヅマを、トーマスはじぃぃと追求するように見つめてきたが、結局オヅマは何も言えなかった。まさか夢で見たのだと言ったところで、信じてもらえるはずもない。
黙りこむオヅマに、トーマスはため息まじりにつぶやいた。
「エドガーは弟さ。僕ら、三つ子だったんだ」
「三つ子!?」
「僕もよくわからないけど、母さんがなかなか出来なくって、神様みたいに有能な先生にいっぱいお願いしたら、三人も子供を授けてくださったらしいよ。だけど僕らを産んだ母さんは死んじゃって、エドガーも……死んじゃったよ」
「えっ!?」
オヅマは驚き、思わず声を上げた。
快活で楽しい変人であった、エドガー・ビョルネ。彼と、もはや会えなくなってしまったというのか?
呆然となるオヅマに、トーマスは怪訝に尋ねてくる。
「ねぇ、エドガーのこと……ロビンから聞いたの?」
「えっ? いや……」
否定してからオヅマはしまったと思った。ロビン・ビョルネから聞いたというほうが、この場合、一番すんなり信じてもらえそうなものだ。しかし……
「ま、ロビンが言うわけないか。できれば、彼にはエドガーの話はしないでおくれよ」
「……どうして?」
「エドガーは川で死んだんだ。溺れてね。三人で遊んでいた……けど、気がついたらエドガーは流されてた」
「川で……死んだ?」
オヅマは聞き返しながら、夢で見た奇抜な男がもはやこの世にいなくなっていることに、ひどく胸が痛んだ。彼の死の原因が直接、自分にあるわけではない。でもこれもまた、もしかしたらオヅマが夢と違う選択を行ったことによるものなのだろうか……?
「ロビンはエドガーのことを思い出すと、ひどく気鬱になるんだ。一緒に遊んでいたのに、自分が気付かなかったことを、いまだに悔やんでいてね……」
◆
だからロビンにはエドガーのことは言ってくれるな……と、オヅマはトーマスから頼まれていたのだが、意外にもそのロビン・ビョルネ医師の方からエドガーの話題を持ち出してきた。大丈夫かと、ビョルネ医師の顔色を窺ったが、月光に照らされた顔にあまり変化はない。
オヅマは迷いつつ、思いきってビョルネ医師に尋ねた。
「あの、トーマス先生から聞いたんですけど、エドガー……さん、は川で死んだ、って」
ビョルネ医師は一瞬、何かをのみ込むかのように唇を噛みしめてから、オヅマの視線を避けるように、川の方へと顔を向けた。
「えぇ、そうです。夏の日に……川エビを釣りに行ったんです。まだ幼い日のことです。昔、私達の住んでいた家の近くには、小さい川があって、よく三人で遊びました。エドガーはいつもちょっと変わったことを思いついて、面白がってやるんです。あの日もきっと、何か思いついたんでしょう。一人で少し離れて行って……私は、また彼が何かやろうとしているんだろうと思って、わざと気付かないフリをしました。驚いてやらないと、機嫌を悪くするんですよ。誰かを驚かせるのが大好きないたずらっ子でした」
「へぇ……なんか、トーマス先生に似てるな」
オヅマが何気なく言うと、ビョルネ医師はいきなりクルリと振り返った。その顔はひどく切羽詰まって見える。
オヅマは思わず問いかけた。
「どうしたんですか?」
「……いえ」
ビョルネ医師はすぐに顔を伏せたが、かすかな動揺が声に含まれていた。
「ビョルネ先生? 俺……いや僕、何か悪いことを言いましたか?」
「いいえ。オヅマ公子……違うのです。僕は、時々わからなくなるんです。昔のトーマスは、あんなではなかった……」
「え?」
「昔はもっと真面目で、あんなフザけたことを言うような子ではなかったんです。エドガーが死んで……変わってしまった。あの日、何があったのか……僕は、いまだに聞くことができない」
「どういうことです? エドガーさんは、川で溺れ死んだんでしょう? 先生も近くにいたんじゃないんですか?」
「違うッ! 僕は……」
ビョルネ医師は気色ばんだ様子で顔を上げたが、当惑するオヅマと目が合って、すぐにハッとしたように口を噤んだ。顔を見せたくなかったのか、クルリと背を向ける。
「あぁ……トーマスがそう言ったのですね」
つぶやくように言って、ビョルネ医師はまたしばらく、川を眺めていた。その背に示された明らかな拒絶に、オヅマは何も言えず、同じように月の光を映す川面を見つめるしかない。
アオサギの声が響き、無言の時間を切り裂くと、ビョルネ医師が静かに言った。
「オヅマ公子。今の……エドガーの話は、忘れてください。僕にもトーマスにも、二度とその名を出さないでください」
「え……と、はい。……わかりました」
オヅマはおとなしく頷くしかなかった。それくらいビョルネ医師の表情は暗く、苦しげに歪んでいた。
「では、失礼」
ビョルネ医師はそれでもきちんと折り目正しく挨拶をして、穹廬へと戻って行った。
オヅマは迷ったが、とりあえずエドガーについては忘れることにした。
もはや彼は夢でしか見ぬ住人となってしまった。この先、会うこともないのであれば、これ以上、考えたところでどうしようもない。それに……たぶん会わぬほうがいいのだ。彼にはどこか得体の知れぬところもあったから。
アオサギが暗い川面を横切って飛んで行く。その姿を追えば、東の空が白み始めていた。
帝都が朝を迎えようとしている……。




