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昏の皇子  作者: 水奈川葵
第三部 第一章
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第四百四十一話 帝都を前に(1)


  ―――― オヅマ……おかえり……


 懐かしい声は、胸が痛くなるほどの愛着と同時に、ひどく気分が悪くなる。

 どうして自分がこんな気持ちに陥らなければならないのかと思うと、歯痒さと苦しさと苛立ちが募り、意味もなく憎しみがあふれ出しそうになる。

 とうの昔に消えたはずの感情だ。

 もはや思い出すことなどなかったはずの感情だ。

 それなのに、まだ、しつこく呼びかけてくる。



  ―――― オヅマ……待って……る……



 知らない。待つ者などいない。

 帝都など知らない。なにひとつも。

 消えたんだ。

 すべては消えた。

 あぁ ―――

 それなのに、どうして。

 また、手を伸ばそうとしてしまうのか…………

 




「…………」


 誰かの名を呼びかけて、ふと、オヅマは目を覚ました。


 まだ天幕の向こうに朝日の光はない。夜明け前なのだろう。川べりに住まうアオサギのギャーと鳴く声が遠く聞こえてくる。

 オヅマはしばらく闇をボンヤリと見つめてから、ゆっくりと起き上がった。寝ている間に泣いていたのか、目の端から耳へと流れた涙で、少しだけ耳元の髪の毛が濡れていた。なんとなく恥ずかしい気もして、ゴシゴシとこする。


 長い吐息をついたのは、自分でも整理できない奇妙な気分を少しばかり落ち着けたかったからだ。ゆっくりと今の夢(のようなもの)について考えようと思ったのに、意識がはっきりしてくると、もはや茫漠としたものになってしまった。ただ、胸苦しさだけが残る。


 オヅマは頭を振ると、椅子に放り出してあった狸の毛皮のベストを着た。

 ラディケ村にいたときに世話になった、薬師(くすし)の婆の形見だ。

 正直、あれだけ薬草の採取を手伝ったわりに、死に当たっての遺産がこれ一つとは、まったくケチな婆だ、と当時は文句を言っていたが、今となってはあの婆が教えてくれたことはとてつもない財産となっている。金目のものはほぼなかったが、あの婆の教えが役に立ったことは多い。黒角馬(くろつのうま)のことも含め、あの北の山々の生態系などにも詳しく、昔の話もよくしてくれた。


 考えてみればあの婆は結局いくつであったのだろう?

 後になって歴史で学んだ百年以上前の戦のことについても、まるで昨日あったことのように語っていた。オヅマが知り合ったときには既に年寄りで、年寄りのまま死んでいったから、結局あの薬師の婆がいくつであったのか、判然としない。


『まぁ……どうせ聞いたところで、素直に教えるはずもない……』


と思うのは、あの婆のひねくれた性格をわかっていたからだ。


 口の達者な頑固者で、当人も偏屈なことをわかってか、村外れに住んで、進んで人と交わることもなかった。ただ、薬師としての腕は良かったようで、薬を求めて隣の領地から山を越えてやって来るなんてこともあった。それなりの信用はあったのだろう。

 オヅマをこの婆に引き合わせたのは、亡くなった血の繋がらぬ祖母 ―― 養父であるコスタスの母 ―― だった。


 オヅマはまったく覚えていないが、物心つく前の幼い時分、寝ているときに「頭が痛い」と泣いて起きることが頻繁にあったのだという。針子の仕事や家事に忙しい母親(ミーナ)の代わりに、祖母がオヅマを薬師の婆のところへ連れて行ってくれた。二人は長年の茶飲み友達で、気安い仲だったようだ。


 だが薬師の婆は、初対面であったはずのオヅマを見て、ひどく動揺していた。どんな顔をしていたのか今はもうはっきりと思い出せないが、そのときに言われた言葉は、あの家の独特の香りと共に、オヅマの記憶にしっかりと残っている。



  ―――― 懐かしや……オヅマ……



 オヅマはおそらく首を傾げただろう。今でも思い出しては首をひねる。

 記憶は続き、祖母もまた不思議そうに婆に問いかけていた。



  ―――― おや? ■■■さん、オヅマのことを知っていたのかい?


 だが薬師の婆は、皺の間から覗く小さな眼を懸命に見開いて、じぃとオヅマを見つめた後に、ゆっくりとその目を(すが)めて言った。


  ―――― あぁ……。いや、違う。ちょいとばかり昔のことを思い出したのさ。似たのがいてね。名前? あぁ、そうだね。偶然、同じ名前だったかねぇ? 不思議なこともあるものさ……



 婆の勘違いであったと ―― そのときはそれで終了した。

 だが、あの婆のことを思い出すと、なんだかおかしな気持ちになる。

 婆が時々オヅマを見つめるとき、いつもオヅマではない違う何かを見ているかのようだった。オヅマがそのことを尋ねても、笑ってはぐらかすばかり。

 そういえば……今の思い出の中においても、あの婆の名前は分からずじまいだ。いつも「婆さん」とぞんざいに呼んでいたからだろうか。聞いたような気もするが、まったく思い出せない。



  ―――― 心配しなくてよいさ、オヅマ



 そう言って、薬師の婆はリウマチの強張った手でオヅマの頭を撫で、簡単な薬湯を作ってくれた。それが効いたかどうかはわからないが、原因不明のオヅマの頭痛は治った。その後も祖母に連れられて、祖母が死んでからは一人で、婆の家を訪ねるようになった。


 干した薬草の匂い。

 時々淹れてくれた不味(まず)いカモミールティー。

 立て付けの悪い寝室のドアはいつも少しだけ開いて、ギィギィ鳴っていた。



  ―――― お前がここにいることは、きっと主母神(サラ=ティナ)(おぼ)し召し…………



 今、こうしてやけにあの婆のことを思い出すのは、らしくもなく気分が落ち着かず、夜明け前の中途半端な時間に起きてしまったからだろうか……?


「なにを今更……ビビッてんだよ」


 オヅマは自分に苛立った。歯噛みしながら穹廬(テント)を出ると、ちょうど雲間から青白い月が出てきて、辺りを白く照らす。


 オヅマはフゥと息をついた。

 帝都に入る為の北大門(サザロニアーザ)がもう近い。

 明日……いや、今日にはあの門をくぐって帝都に入る。

 もう十分に覚悟はしていたはずなのに、こうして起き出してしまうほどに、やはり自分はどこか浮き足立っているのだろうか。


「情けねぇ……」


 バシリと両頬を打って、右手を流れるテュルリー川のほうに目を向けると、同じように一人夜中に起き出して歩いている酔狂がいる。オヅマは少し迷ってから、その人物に近寄った。一応、歩きつつ腰の剣を確かめる。だがすぐに、それが必要のない相手だとわかった。


「ビョルネ先生! 何してんのさ、こんな時間に、こんなところで」


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