第四百四十話 ブルッキネン伯爵家(3)
修練場での稽古を終えると、オヅマらは用意された部屋へと向かったが、途中で思わぬ場面に遭遇して足を止めた。
「まぁ、せっかく帰ってみえたと思ったのに、もう明日には行かれるなんて……」
落胆と非難を滲ませた甲高い声で、女の子がマティアスに迫っている。年の頃はマティアスと同じか、やや年下といったところ。茶鼠色の髪を後ろで丸くひっつめて、使用人であるのか青の前掛けをしている。しかしマティアスの様子からすると、ただの使用人のようにも見えなかった。
「仕方ない。そもそもここに来る予定はなかったのだから」
「そんな! せっかくターゴラまでいらしておいて、無視なさるおつもりだったのですか? 奥様はそれはそれは何日も前から、いつ着くかとマティアス坊ちゃまが帰られるのを指折り数えてお待ちになっていらしたのに……奥様が可哀相です!」
「母上は小公爵様に会うのを楽しみにしていたと思うが……」
女の子の剣幕にマティアスはたじたじとなりつつも、ボソボソと口の中でつぶやく。しかし女の子は聞いていないようだった。
「あの黒い髪の小公爵様のせいですか? だから坊ちゃまが我慢なさって……」
女の子が明らかな非難をこめてアドリアンのことを持ち出すと、マティアスはさすがに怒鳴りつけた。
「ヘルガ! 差し出た口をきくな!! 小公爵様はわざわざ僕のために、寄り道してここに来て下さったんだぞ。何も知らぬくせに、失礼なことを……」
激昂して怒鳴りつけるマティアスに、軽い調子で呼びかけたのはオヅマだった。
「おいおいおい、マティ。ちょいと落ち着けよ」
マティアスと女の子 ―― ヘルガが、ハッとしたように振り向く。そこにアドリアンの姿を見つけた途端に、二人はバツ悪そうにうつむいた。
「申し訳ございません、小公爵様」
マティアスが謝るのを、アドリアンは鷹揚に笑って制した。
「仕方ないさ。今日、来たばかりで明日に出発と聞けば、短いと思うのも無理はない。きっと伯爵夫人だけでなく、君の帰りを心待ちにしている人が多くいるのだろう。それはとてもいいことだと思うよ。そうでしょう? ヘルガ嬢?」
ヘルガはもじもじとスカートをつまんでいじくっていたが、問われて顔を上げ、まともにアドリアンと目が合うと、真っ赤になってまたうつむいた。
オヅマはやれやれとあさっての方向に溜息をついた。
アールリンデンの街でも、不意にアドリアンに声をかけられ、ヘルガのようになる女子連中は事欠かなかった。それこそ『尊大で意地の悪い小公爵』というイメージを持って、当初は批判的な眼差しであった者達ですら、実際にアドリアンに接してみれば、そのイメージはすっかり消え去り、次にはトロンとみとれているのだ。
しかし今回に限っていえば、ヘルガに『麗しの小公爵様』をのんびり観賞する猶予は与えられなかった。
「ヘルガ! 小公爵様の前だぞ! ちゃんと挨拶しないか!」
マティアスからの厳しい叱責に、ヘルガは深々と頭を下げると震える声で挨拶した。
「も……申し訳ございません、小公爵様。口が過ぎたことを申しました。私は、奥様付きの侍女、ヘルガ・オードソンと申します」
「オードソン?」
オヅマは思わず聞き返した。「オードソンってことは、ラッセ・オードソン卿の……」
「オードソン卿は私の叔父です」
「あぁ、叔父ね。……なるほどな」
軽く受け答えしながら、オヅマはブルッキネン家内において、オードソン家が影響力を持つに至った経緯が何となく想像できた。おそらく騎士団だけでなく、こうした家政のことも含めて、両家は長い間、関係性を深めてきたのだろう。それこそ嫡男のマティアスに対しても、一応礼儀をとりつつも、先程のように文句を言えるほどに。
マティアスはヘルガを追い立てるように下がらせると、再びアドリアンに謝した。
「本当に申し訳ございません、小公爵様。ヘルガは小さい頃から母が可愛がっていたものですから、少々口が過ぎるところがございまして」
「いいや。伯爵夫人が言いたいことを、代わりに言っただけなんだと思うよ。マティもそんなに怒らなくていい。伯爵夫人が可愛がっていたというなら、君にとっても妹のような存在だろう?」
「そんなものではありませんが……」
渋い顔になるマティアスにオヅマは問うた。
「幼馴染みってとこか? あの感じだと。で、どうなの?」
「どうなの……とは?」
「つき合ってんの? お前、あの子と」
「そ……そんなワケがあるか!」
「えぇ? そうなのか? 年もそう変わらなそうだし、あっちはその気があるみたいに見えたけどな」
オヅマ達に気付くまで、マティアスに対して文句を言っているヘルガの声に、オヅマは女性特有の少々媚びたような、甘えたような感じを受けた。オヅマは最初からヘルガに対してあまりいい印象を持たなかったのだが、その理由はこうしたかすかな媚態への嫌悪感だった。
「ヘルガはオードソン家から礼儀作法のために、母上付きの侍女になっただけで、そんな関係ではない! 断じて違う!」
マティアスがあまりにかたくなに言い張るので、オヅマは少しばかりからかいたくなった。
「へぇぇ。やけに必死になって言い立てるじゃないですか、マティアス坊ちゃま。そんなこと言いながら、早々に下がらせたところを見ると、俺らに彼女をあんまり見せたくなかったんじゃあ、ございませんかぁ~?」
「何を馬鹿げたことを! 必死になってるのではなく、真実を述べているのであって……」
「へぇへぇ。心配せずとも、明日には俺らは出立しますんで。幼馴染みとの別れをたぁーっぷり惜しんでから、後から追いかけてこればいいんじゃないですかね~? 俺らはのんびり進んでおきますよ~」
「オヅマぁぁ……貴様ァ、からかっているなァァ」
アドリアンはいつものごとく始まったオヅマとマティアスの喧嘩 ―― という名の彼らなりのコミュニケーションの一環 ―― を面白がりつつも、穏やかに仲裁した。
「まぁ、この場合はオヅマ、マティの言う通りだよ。だってマティにはれっきとした婚約者がいるんだもの」
「えっ!?」
オヅマはさすがにそれは寝耳に水だった。エーリクまでもが目を丸くする。
あわてたのはマティアスだった。
「小公爵様! それは、まだ正式なものでは……!」
「そうなの? でも、一応紹介してくれたよね。ホラ、どこだったか……詩の朗詠会で。フェルセン子爵家の……サラ=ミーラ嬢だったっけ?」
「サラ=エミーリアです」
生真面目に訂正してから、マティアスはハッとなった。オヅマも、アドリアンもニヤニヤ笑っている。エーリクでさえも、どこか弟を見守るような生温かい視線であった。
「小公爵様……わざと間違えられましたね?」
マティアスがやや恨みをこめて言うと、アドリアンはキョトンと首をかしげる。だが細くなった鳶色の瞳には、悪戯めいた笑みが浮かんでいた。
オヅマもニヤニヤ笑いながら、マティアスの肩を叩く。
「まッ、その話は部屋でじっくり聞くとしようか。マティアス坊ちゃま」
「黙れーッッ! 誰がお前に話すかアァァーッ!!」
いつものごとく雷を落とされてもなんのその、その後の道中でオヅマが何度となく「サラ=……」から始まる人物の名前を出しては、マティアスをからかうようになったのは言うまでもない。




