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昏の皇子  作者: 水奈川葵
第三部 第一章
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第四百三十八話 ブルッキネン伯爵家(1)

 アールリンデンから帝都までの道筋は概ね決まっている。

 セルツ=サフェナ街道を南に進み、グァルデリ山脈にぶつかったところで、急峻な山を迂回するようにして、麓のファル=シボの森を蛇行しつつ南下。東部の海岸地方を縦断するヤナ川と、グァルデリ山脈を水源とするハルフェルス川が合流する南東の港湾都市・セルツから東街道に入って、そのまま帝都への道筋を進むものだ。


 帝国において街道は、その発展と統治において必要不可欠のものといえる。()帝とも呼ばれた五代目皇帝・ティオルヴァルドは特に街道の整備と敷設を積極的に進めた。

 現在までに作られた街道は全部で六つ。

 一番古いのが帝都キエル=ヤーヴェから北のサフェナ=トゥルクリンデンへと続く『北街道』。

 次にヤーヴェ湖北岸の都市アデアス=ヤーヴェから大公領コールキアを通り、西方諸国へと向かう『西街道』。

 帝都から東南へと伸びて、ハルフェルス川を越え、そのまま東の海へと出る『東街道』。

 もう一つはヤーヴェ南岸のボッサ山脈から流れるテバ川に沿う形で進み、南の穀倉地帯を貫いて、南海へと続く『南街道』。

 帝都からほぼ真東に進み、名峰オーンボル山の麓に広がる巨大樹海までという、最も距離の短い『オーンボル街道』。

 最後に東街道から分かれて、グァルデリ山脈を回り込むように北東のグレヴィリウス領に入り、そのまま北限のヴェッデンボリ山脈にまで続く『セルツ=サフェナ街道』。

 ちなみにセルツ=サフェナ街道は元々は支街道の一つであったのだが、帝国宰相でもあったグレヴィリウス公ベルンハルドの時代に大がかりな拡張工事が行われ、なし崩し的に街道の一つとされてしまった。そのためセルツ=サフェナ街道は別名『グレヴィリウス街道』とも呼ばれる。


 街道には各所に宿場町があり、多くの旅人は大小ある宿屋で休息をとった。しかし随行人数の多い貴族においては、宿場町に隣接する広地(カスド)と呼ばれる整地された場所で、穹廬(テント)(造りのしっかりした組立式宿泊設備)を張って休息をとる。

 グレヴィリウス小公爵一行も、近侍を始めとして護衛の騎士らも含め、そこそこの大所帯で移動していたため、宿泊は穹廬(テント)がほとんどであった。

 これが新年の上参訪詣クリュ・トルムレスタンの時期であれば、広地(カスド)も混み合い、殺伐とした様相を呈するのだが、まだ春先の種蒔(たねま)き月であれば閑散としたもの。宿場町で借り受ける穹廬(テント)を組み立てるための資材や、臨時雇いの組立(くみたて)人足(にんそく)についても割安で済む。

 だが帝都に行くには時期外れであるがために、別の問題も生じた。


***


「あの……小公爵様。折り入ってお話が」


 めずらしく周囲を憚るように話しかけてきたのはマティアスだった。

 設営を終えた穹廬(テント)の中で、暇を持て余していたアドリアンは、すぐさま読んでいた本を置いて向き合った。


「なに? またオヅマが何か言ってるの?」


 いつもの癖で先に尋ねてしまう。

 この旅に限らず、マティアスが何か困って申し立ててくる場合、それは十中八九オヅマのことであった。相変わらず水と油の二人は、何かと些細なことでの喧嘩が常態化している。

 だがマティアスは首を振った。


「いえ。オヅマではなく、その……私の母から手紙が来ておりまして」

「マティのお母上って……」


 アドリアンは少しだけ考えて思い出した。

 マティアスの母親であるブラジェナ・ブルッキネン伯爵夫人。亡き公爵夫人リーディエの侍女であったと聞いてる。奇妙な縁でオヅマも知り合うことになり、一時的に世話になったらしい。

 その彼女からの手紙と聞いて、アドリアンはピンときた。


「ご招待かい?」

「はい……よければお立ち寄りくださいと。去年の宴でご挨拶できなかったので」


 ようやくファル=シボの森を抜け、ターゴラの宿場町に到着したところだった。ブルッキネン伯爵領府シュテルムドルソンまでは二里ほど。おそらくアドリアンたちがここに立ち寄ることを想定して、使いを待たせていたのだろう。


 実のところ、こうした『招待』はこれが初めてではなかった。

 セルツ=サフェナ街道筋の宿場町はほぼグレヴィリウス門下の領地であるため、かのグレヴィリウス小公爵様御一行が通るとなれば「是非にも我が邸にてご滞在を」と、使者を送ってくる領主諸侯は多かったのだ。だが一度、そうした歓待を受ければ、いちいち滞在も長くなる。アドリアンとしては、さっさと帝都に行って受験勉強に取り組みたかったので、こうした饗応についてはなるべく断っていたのだが……


「まぁ、ちょいと顔見せるくらいしてもいいんじゃねぇの? どうせあっちに着いたら、新年の挨拶もできないんだろ?」


 めずらしく勧めてきたのはオヅマだった。


「あのおばちゃ……伯爵夫人、お前に会いたがってたぜ。ずーっと小公爵様と話したくても、話せなかった、って。もう、いいかげんお前と話した程度のことで、公爵閣下が睨みきかせてくることもないだろう?」


と言うオヅマの脳裏には、去年シュテルムドルソンを出るときに「今度は小公爵様と来てね!」と手を振るブラジェナの姿があった。

 だがマティアスはオヅマに加勢されても慎重だった。


「小公爵様が母のことを気になさる必要はございません」


 母が長年、小公爵であるアドリアンと話したがっていたことは知っている。去年は足の怪我で上参訪詣がかなわず、会えずじまいで終わったので、出来うるならば母の望みを叶えてやりたい。

 しかし例の晩餐以降、アドリアンは公爵のみならず、実母のリーディエに対してまでも「母上」と呼ぶことをしなくなった。相当に複雑な思いを抱えているのは間違いない。そこにリーディエに心酔している母を会わせていいものかどうか……マティアスも悩んだのだ。

 だがアドリアンはそのことについては考えていなかった。


「じゃあ、寄ろうか?」

「えっ? よろしいのですか?」

「うん。帝都に着いたら、ゆっくり会う暇もないだろうからね」


 アカデミーへの入学は確定事項とはいえ、貴族試験だけではなく一般試験まで受けるとなれば、帝都に着いてからも勉強や論文清書などもあり、新年が明けて入学しても、今度は履修登録などの手続きで休む暇もなくなる。その為、今年度に限っては、公爵家の夜会や園遊会、皇家(こうけ)の催事についても欠席が許されているくらいだ。

 去年と違い、新年の上参訪詣クリュ・トルムレスタンでブラジェナが帝都に来ることがあっても、そう簡単には会えない。だとしたら今のうちに会っておくほうがいいだろう。


「君も母上に会うのは久しぶりだろう?」


 マティアスは近侍について以降、母親に会っていない。秋に帝都から帰参する道中、シュテルムドルソンに寄ってきてもいいと言ったのだが、忠義一徹の頑固近侍は頑なに固辞した。こうした機会でもないと、会おうとしないだろう。


「アカデミーに入ったら、当面は忙しいし、今のうちに会っておいたほうがいい」


 とどのつまり、アドリアンが今回の招待を受けたのは、マティアスのためだった。

 しかしシュテルムドルソンの領主屋敷で近侍らを迎えたブラジェナは、息子そっちのけで、アドリアンの姿を見るなりその場に泣き崩れた。


「すっかり……大きくおなりで……あぁ、リーディエ様が生きていらっしゃったら、どんなにか……」


 呆気にとられるアドリアンの肩をポンと叩いてから、オヅマがブラジェナに呼びかける。


「伯爵夫人、そう会うなり泣かれたら、小公爵様だって困りますよ。ひとまずは挨拶が礼儀じゃなかったですか?」


 少しの間であったが、ここに滞在中にはしつこく礼儀作法について注意を受けたので、オヅマとしてはちょっとした意趣返しでもあった。

 ブラジェナはスンと(はな)を啜り上げると、夫の差し出してくれたハンカチで涙を拭い、立ち上がった。


「そうですわね。大変、失礼致しました。小公爵様。私はブラジェナ・ブルッキネンと申します。アハト・タルモ・ブルッキネンの妻であり、小公爵様付き近侍マティアスの母にございます。この度はわざわざお運びいただき恐悦にございます」

「ようこそおいでくださいました、小公爵様。妻も大層喜んでおります。来ていただき、ありがとうございます」


 ブラジェナの丁重な挨拶のあとに、夫であり、この屋敷の主であるブルッキネン伯アハトが気安げに話しかけると、ブラジェナは背中に蜘蛛の巣をつけた夫を見て雷を落とした。


「アナタッ! あれほど申しましたのに、また虫を見に行っておられましたわね!? 小公爵様がおいでになるかもしれないから、今日はおとなしくしておくようにと申しましたでしょう!」

「ハハハ。いや、だって、本当にお見えになるかわからない、って言ってたし、ちょうどルリメアゲハが飛んでいくのが見えたものでさ。この時期だとまだ早いと思うんだけど、今年は暖かいのかなぁ……?」

「チョウチョなんてどうでもよろしいのです! もう、着替えてらして!」

「えぇ? ちゃんと払ってきたけどなぁ……?」


 口やかましい母に、のんびり屋の父。これがおそらくブルッキネン家の日常であるらしい。周囲を囲む使用人らも又始まったと言わんばかりの顔つきだった。オヅマはニヤニヤ笑って見ていたし、アドリアンもややあきれつつ、それでも夫婦の仲睦まじい様子に悪い気持ちは抱かなかった。唯一、近侍の中でしかめっ面をしていたのは、当然ながら……


「父上! 母上も!! 小公爵様の前です!」


 マティアスがビシリと言うと、ブルッキネン夫妻はピタリと止まり、まじまじと息子を見つめた。


「まぁぁ、なんてこと! マティちゃんったら、いつの間にそんな(コワ)い声に!?」


 ブラジェナはすっかり成長した息子に半ば驚いて、半ば喜びを滲ませて叫んだのだが、小さい頃のように呼びかけられたマティアスは真っ赤になって固まった。その背後でオヅマは噴き出し、アドリアンは信じられないようにマティアスを見つめる。エーリクは黙って下を向き、テリィも必死に笑いを堪えていたが、ヒクヒク頬が動いていた。


「ま、そりゃ声変わりもするもんさ。な、()()()()()()


 この場合、オヅマにからかわれるのは、マティアスにとって助け船だった。自分でも八つ当たりだとわかっていたが……


「うるさぁぁーいッ! お前がマティちゃんと呼ぶなーッ!!」


 当然、怒鳴りつける。

 オヅマもマティアスの気持ちは理解できたので、あえて怒鳴られてやったのだった。


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