第四十一話 水甕の中の少女
その夜、オヅマ達一行が領主館に帰ることはなかった。オリヴェルがやはり興奮して、少し熱を出したせいだ。
しかし、ビョルネ医師は落ち着いて言った。
「まぁ、今日はこのままここでお世話になることにしましょう。一晩、ゆっくり眠れば体調も戻るでしょう。朝方に出れば、さほどに暑くもないでしょうし」
ある程度、それは予測していたので、神殿側も快く宿泊を許可してくれた。
簡素な夕食を頂いた後、朝からの忙しさで皆早々に眠りについたが、オヅマは目が冴えていた。
まだ、あの声が残っている。女なのか男なのかもわからない、不思議に響く声。
寝返りを何度か打ったあと、観念して起きあがった。
どうせ眠れないなら、外に涼みに行こう。
宿泊所から出ると、月が皓々と冴えていた。さっきまで舞っていた境内は月光に白く照らされながら、シンと静まり返っていた。
―――――オヅマ…
また、声がする。
―――――オヅマ…
オヅマは歩き出した。
声は自分を呼んでいる。さっきのようにあらゆる場所から見つめるのではなく、明らかに一定方向から聞こえてくる。こちらへ来いと招くように。
何者ともしれぬ声であるのに、オヅマはなぜか恐怖を感じなかった。
灌木の間を抜け、鬱蒼とした木々の間を抜けると、そこには小さな祠があった。手前にはたっぷりと水をたたえた水甕があり、その中に月が浮かんでいた。
何気なしにその水甕の中を覗く。ゆらゆら揺れる水面に、自分の仏頂面が浮かんでいるのをボンヤリ見ていると、
―――――オヅマ…
再び声が響き、波紋が揺らめいて水甕の中に現れたのは少女だった。
オヅマよりも少し年上くらいだろうか。まっすぐな黒髪は胸まで伸びて、眉のところで前髪はキッチリ切り揃えられている。
―――――オヅマ…
呼びかけた声のままに赤い唇が動き、うっすらと目を開ける。
オヅマは息を呑んだ。
それは、夜空を映した瞳だった。
黒い瞳孔の周囲に閃くような金色が縁取り、瑠璃や朱色の星々がきらめいている。
「………誰だ、あんた」
しばらく見つめてから、オヅマは普通に尋ねていた。
見も知らぬ少女であるのだが、なぜか彼女に対する警戒心はなかった。水面に映っていることも、さほどにおかしいと思えない。むしろ当たり前のように受け入れる自分に違和感があった。
水の中で少女は微笑んだ。片頬に笑窪ができる。
―――――どうやら…成功のようね……
「成功? なにが?」
―――――あなたが、私を覚えていないからよ……
「……何言ってんだ?」
オヅマは頭が混乱した。
自分はこの水甕の中の少女のことなど知らない。全く覚えがない。
最近滅多と見ることのない夢の中ですら、会ったことはない。
「あんた、誰だ?」
少女は微笑むのみで答えない。
スゥと細めた目が金色に光り三日月のようだ。
―――――忘れていなさい。それでいいの…
オヅマは苛ついた。バシャリ、と水を叩く。
「だったら、なんで呼んだ!?」
波紋が激しく揺らいで、少女の姿をかき消す。ゆっくりと水面に平穏が戻ると、再び月が浮かんでいた。
「おい!」
オヅマは叫んだ。
水甕の中に少女の姿はもうなかった。
ギリ、と歯噛みしてオヅマは水甕に顔を突っ込んだ。息が続かなくなる寸前まで水の中で目を開いて少女の姿を探したが、当然ながら彼女は現れなかった。
耐えきれず、プハッと水から顔を出す。ポタポタと雫が落ちて、水面に幾つもの波紋が浮かぶ。
「……何なんだよ……」
オヅマはつぶやいてから、ブンと首を振って水気を払った。
ますます苛立つ。いきなり声をかけてきておいて、忘れろとか……何なんだ。勝手すぎる。
「やめたやーめた!」
オヅマは叫んで少女の残像を頭から追い払った。
こうしたことをいつまでも気にしていたらロクなことがない。
いわゆる狐憑きの類なのだ。
昔、薬師の老婆が言っていた。不思議なことは起こるものなのだと。ただ、それに心を持っていかれてはいけない。魔物や妖精などに取り憑かれるということは、そういうことなのだと。
祠に背を向けて歩きだすと、森の奥から鹿の啼声が聞こえてきた。
何かを求める切実な声―――。
―――――オヅマ………幸せ?
かすかに問いかけた少女の声は、オヅマに聞こえなかった。




