第四百四話 試験準備(2)
「そのジーモン教授が話にならないのです」
「なんだよ? 偏屈だけど、面白い爺ちゃん先生だぜ。アップルパイとアップルティー好きの」
オヅマの中でジーモン教授は既にアップルティーのお爺ちゃんになっている。
マティアスの顔がますます渋くなった。
「アップルティーについてはともかく、こちらが意見を求めても、まったく相手にしてくれないのです。挙句の果てには、正史を蔑ろにするがごとき発言をして……エドヴァルド大帝のことも、呼び捨てになさるのですよ!」
オヅマにはすぐわかった。
最初の授業のときからそうであったように、ジーモンにとっては建国の英雄にして偉大なる大帝も「たかがエドヴァルド」であった。これは場所が場所なら、不敬罪でそのまま牢屋にしょっ引かれても文句が言えないくらいの非行だ。
そもそも他の先生から教えてもらうようになってからわかったが、普通、歴史を現在から遡っていくような教え方はしないらしい。小公爵付きの歴史教師のオーケンソンはジーモンの弟子を自任していたが、こと教育に関しては、師の考え方とは違っていた。
「ジーモン教授の言っていることも尤もなのですが、いかんせん、我らは小公爵様を始めとする皆様には、きちんとアカデミー試験が受けられる状態にもっていく必要がありますので……」
要はジーモンの教育法は特殊で理想が強く、オーケンソンの方が普通で現実的であるのだろう。
「エーリクさんは? 確かエドヴァルドのザンラーム攻城戦についてだろ?」
オヅマはもう一人、歴史を題材にして書こうとしているエーリクに尋ねた。
騎士らしく、史実から戦術についての考察をしていくらしい。
だが、エーリクもやや困ったように首を振った。
「いや。そちらはあまりにも語られすぎて、目新しくもないだろうから、どうせならばこの土地にいることを活かしたほうがいいと言われて……オルガス元帥の北伐でのレーゲンブルト城塞奪還について書こうかと」
「あぁ! そうだな。それだったら、そこらにいくらでも書けそうなこと転がってるだろ」
「オヅマ……いくらなんでも、崩れた城塞の石をスケッチすればいいってことじゃないんだよ」
アドリアンは苦笑いしてから、エーリクに尋ねた。
「じゃあ、エーリクはジーモン教授から添削は受けてるの?」
「いや、それが……研究が忙しいみたいで、あんまり見てくれません」
実のところ「あまり」というより、全くその方面の本についてすらも、教えてくれていないのだった。
「それは困ったな……じゃあ、僕のほうで頼んでみようか」
「えっ? いえ、それは……ご迷惑になるので結構です」
エーリクは正直、学者のジーモンの偏屈さに辟易していたので、彼の老人が小公爵であるアドリアンにすらも無礼なことを言いそうで、すぐに固辞した。
だがアドリアンはエーリクの懸念を取り払うように笑って言った。
「いや、ジーモン教授じゃなくてね。ミラン行政官に紹介されたんだけど、このレーゲンブルトで、個人的に地元の歴史を調べている人がいるんだよ。けっこう詳しくて、本なんかも自費で出版されてるんだ。北伐についてもご存知だろうと思うし、一度話を聞くだけでも参考になると思うな」
「それは、願ってもないことです」
エーリクはようやく論文作成の糸口を見出した気がして、有難くアドリアンの申し出を受け入れることにした。
一方で、青い顔であったのはマティアスだった。
「……私のほうは、もう絶望的です」
「マティは課題と一緒にオーケンソン先生に添削を頼もう。大丈夫だよ、まだ時間はあるから」
アドリアンは半年後に迫る試験に戦々恐々となっている近侍らを励ますように言った。もっともこの中で一番熱心に勉強しているのがアドリアンであるのは、自他共に認めるところであったが。
ちなみに。
まだ先の話ではあるが、ジーモン教授は結局、自分の研究に没頭するあまり、オリヴェルの授業内容についても不備が目立つようになり、そのことについてヴァルナルが苦言を呈すと、激昂して突如辞めてしまった。
困ったヴァルナルが次の教師を探す頃合いで、小公爵の家庭教師の職をなくしたオーケンソンが、アドリアンの推薦もあって、そのままオリヴェル付きの家庭教師となった。彼は師父としてジーモンを慕っていたが、彼の教授法を踏襲することはなかったので、オリヴェルはようやく基礎的な歴史学の講義を受けることになった。
一方、オヅマは。
「小公爵様は川の氾濫について、マティはエドヴァルド大帝の建国過程と都市計画、エーリクはレーゲンブルト城塞の攻防戦、僕はルティルム語の成り立ちと変遷について。皆、忙しくやってるってのに、オヅマ、君は何してるんだ?」
テリィの問いかけに、オヅマは「さぁ?」と首をひねる。
「さぁ? じゃなかろうがッ。いい加減、主題を決めてまとめていかないと、清書の時間もなくなるぞ!」
やかましく言うのが誰なのかは、もはや言うまでもない。
「清書ォ? なに、そんなのもしないといけないのかぁ?」
「当たり前だろうが! 論文はアカデミー規定の原稿用紙(*けっこう高級)で提出のうえ、誤字脱字は減点対象なんだ! しっかり、きっちり見直さねばならん!!」
「へぇぇ~、タイヘ~ン」
「オヅマ・クラぁンツっ! その態度は何だあァァッッ!!」
自分は関係ないとばかりに気のない返事をするオヅマに、マティアスの雷が落ちるのは、もはやお決まりの流れだった。予想していたアドリアンと他二名は既に耳を塞いでいる。
「おぅおぅ。これ以上、怒りん坊マティに怒鳴られちゃ耳が潰れちまう。では皆様、ご健闘をお祈りいたします~」
雷を落とされた当人は、ヒラヒラと手を振って出て行った。
「まったく……あやつは何を考えて……」
マティアスは腹立たしいのが八割、心配が二割くらいの気持ちであったのだが、当然ながらオヅマはそんなマティアスの心情など知る由もない。
アドリアンは怒るマティアスをなだめた。
「まぁ、心配しなくてもいいよ。なんだかよくわからないけど、オヅマにはトーマスさんから特別問題が出されているらしいから」
「トーマス……というのは、時々、図書室にフラリとやってくる、少々身なりに問題のある男のことですか?」
マティアスは話しながら、また眉間に皺が寄る。
現在、黒角馬の原生種についての研究のため逗留しているという学者、トーマス・ビョルネ。
彼は以前、オリヴェルとオヅマに数学を教えていて、アカデミーの俊英であるとは紹介されたものの、第一印象から良くなかった。
大グレヴィリウスの若君であるアドリアンに対しても、まったく臆することもないどころか、ふてぶてしく、しかも自分の優秀さをひけらかすがごとき言動。身だしなみも西方民族衣装を着崩したようなだらしなく、おかしな格好。
正直、ジーモンといい、トーマスといい、どうしてこんな特徴のあり過ぎる人物を家庭教師になどしたのか……と、ややクランツ男爵の人物眼を疑いたくなるくらいだった。
アドリアンはマティアスの表情で、だいたい何を考えているのかわかった。
「まぁ、色々と気になるところのある人だけど、頭がいいのは間違いないよ。あれで『賢者の塔』に在籍しているんだから」
「けっ……『賢者の塔』??」
『賢者の塔』。
それはアカデミー……いや、正式名称であるところの『キエル=ヤーヴェ研究学術府』の象徴ともいうべきものだった。元々は数人の学者らの研究の場であったのが、いつしか豊富な知恵を求める者たちが集い来る場所となり、やがて塔を中心に学び舎が作られていった。
月日が流れても『賢者の塔』は、アカデミーにおける知の中心だ。
その『賢者の塔』に入るということは、賢者らに認められるだけの研究成果を出しているということだ。
マティアスはトーマスが英明だとは聞いていても、そこまでとは思っていなかったので、さすがに驚いて、唖然と口が開きっぱなしになった。
アドリアンは思っていた通りの反応に、クスッと笑って言った。
「そうだよ。彼に気に入られている時点で、オヅマなんて推薦で入れそうなものだよ。当人はさっぱりわかってないみたいだけど」




