第三百八十話 夫婦、水入らず
「私も、ですか?」
レーゲンブルトに戻ったヴァルナルから、公爵の命令を聞いたミーナは首をかしげた。
ヴァルナルも腑に落ちない顔で頷く。
「あぁ。サラ=クリスティア様のことで面倒をかけたので、礼がしたいとのことなのだが……」
「まぁ、そんな。面倒だなんて。ティア……公女様はとてもお優しい方ですから、まったく困りごとなんてございませんでしたのに」
「そうか……」
ヴァルナルはホッとした。
ルンビックからオヅマがペトラの娘であるサラ=クリスティアを保護したうえ、カーリンらと合流して、レーゲンブルトに向かったと聞いた時から、ミーナに気苦労をかけてやしないかと、正直、気が気でなかったのだ。
というのも、ヴァルナルの知るペトラ・アベニウスは、自分よりも身分が上の人間には卑屈なほどにへつらい、下と見た人間にはとんでもなく高飛車な、まさしく貴族の嫌な部分を集めたような女だった。
特に平民出でありながら、男爵位を賜るまでになったヴァルナルなどは、彼女にとって格好の標的であったのだろう。たまに宴に顔を出せば、コソコソと陰口をたたかれたものだ。
何を言われていたのかはおよそ想像がつく。
前妻も散々「ご愁傷様」と、憐れみにぼかした嫌味を言われていたようだ。(もっとも前妻自身、平民出の成り上がり男爵に嫁いだ自分の身の上を憐れんでいたから、嫌味とばかりも言えないのだが)
だからペトラの娘であるサラ=クリスティアなる少女が、母親の人格を継いでいたら、さぞミーナが苦労しているのではないかと、心配でたまらなかった。
反面、母親思いのオヅマが、ミーナにそんな面倒な子の世話を頼むとも思えない。
一緒に行ったのであれば、もしその子が我儘を言い出したとしても、オヅマのことである。きっと注意してくれているはずだ……と、半ば頼りがいのある息子に望みを託し、必死に馬を駆って、本隊より一足早く、深夜の帰還を果たしたヴァルナルであった。
「でも、よろしゅうございました」
ミーナは言いながら、ヴァルナルの夜具を整える。
「サラ=クリスティア様をお一人で帰らせることになったら、きっと心細い思いをされるだろうと心配していたのです」
「まさか。ペトラ・アベニウスが死んだ今、彼女は正式に公女となるのだから、供もないなどということはなかろう」
「供も、気心の知れた相手であれば心強いでしょうが、それまで足を踏み入れたこともない公爵様のお屋敷に行くのです。知らぬ人ばかりに囲まれて行くのと、一人でも見知った顔に付き添われて行くのであれば、私などでも多少は頼りにしていただけると思いますわ」
ヴァルナルは目を細めて、ミーナを見た。
相変わらず美しい上に、この上なく優しい妻だ。
サラ=クリスティアがペトラと似ているのではないかと、最初から決めつけて勝手に心配していた自分が少し恥ずかしかった。
「貴女がそうまで気にかけるのであれば、サラ=クリスティア様は優れた気質なのであろうな。会いもせぬうちから、少々、色眼鏡で見ていたようだ」
「明日、お会いになればすぐにおわかりになりますわ。幼いながら苦労をされてきたようですのに、境遇を嘆くようなことは一切仰言いません。まさしくグレヴィリウスの公女様たるに相応しい気品をお持ちです」
「そうか……明日、会うのが楽しみだ」
ヴァルナルは一息つくと、ゴロリと寝台に横になった。
ミーナはニコリと笑うと、寝台近くのランプを残し、部屋の明かりを消していく。扉横にある最後の一本を、ろうそく消しでそっと消し終えると、ヴァルナルに頭を下げた。
「それではゆっくりお寝みくださいませ」
当然のように部屋から出て行こうとするミーナに、ヴァルナルは思わず唸った。
「…………んん?」
「なにか?」
ミーナはキョトンと首を傾げる。
ヴァルナルはやや厳しい顔になった。
「寝ないのか? 貴女は」
「いえ。まだ夜明けまでは時間がありますので、少しだけ寝ませていただくつもりです」
「どこで?」
「え? それは……あ……」
ここでようやくミーナは理解した。
寝台からまるで睨むかのように、ヴァルナルが見つめてくる。強い視線に、一気に顔が熱くなって、ミーナは思わずうつむいた。
寝台から降りて、ゆっくり近付いてくるヴァルナルに、あわてて言い訳する。
「あ、あの……長い旅路から戻られてお疲れでしょうから、今日はゆっくり休まれたほうがよいのかと思って」
「今日は? ……そうだな、じゃあ今日のところは、貴女の寝息だけをきいて眠ることにしよう」
悪戯っぽい笑みを浮かべて言うなり、ヴァルナルはミーナの腰を掴んでヒョイと持ち上げた。
ミーナは困ったようにヴァルナルを見つめたが、自分を抱くたくましい腕に、それまで張り詰めていた気がふっと緩んだ。そっ、とヴァルナルの分厚い胸に顔を埋める。
「どうした?」
「……なんだかホッとして。あなたが無事に帰ってくるように祈りながら、もし二度と会えなくなったらと思うと……怖くて……」
普段は見せることのないミーナの気弱な声に、ヴァルナルは胸を衝かれた。
周囲には気丈に見せているが、本当の彼女はとてもさみしがりであった。
オヅマが近侍としてアールリンデンに行くときも、息子には口やかましく言ってはいたが、送り出したその日の夜は、一晩中泣いていたくらいだ。
「すみません。武人の妻が、こんな気弱ではいけませんね」
「そんなことはないさ」
ヴァルナルはミーナの柔らかな髪を撫でながら、やさしく言った。
「貴女がこの館の女主人として立派に取り仕切ってくれていることは、自慢したいくらいだが、こうして素直に弱音を言ってくれることが、一番うれしくてね」
ミーナは顔をあげると、じっとヴァルナルを見つめた。
穏やかな笑みを浮かべる瞳に、自分を掴み取ろうとする熱を感じる。
ミーナはふっと笑うと、ヴァルナルの頬を両手で包み、唇を重ねた。
翌朝。
めずらしく朝食の席にミーナの姿はなかった。




