第三百七十九話 皇家の狗
ルーカスはその質問に首をかしげた。
普段、エリアスが一騎士のことについて関心を寄せることはほぼない。
ヤミは公爵直属の諜報組織『鹿の影』の一員ではあるが、彼らの存在については基本的に秘されており、それはルーカスに対しても例外ではない。にも関わらず、あえてヤミのことを聞いてきたことに、ルーカスは少々驚いていた。
「はい。トゥリトゥデス卿はよく働いてくれましたが……どうされました? なにか、彼のことで気になることでも?」
エリアスはしばし無言で葉巻を吸ったあと、白い息を吐ききってから告げた。
「ヤミ・トゥリトゥデスは皇家の狗であろう」
「え?」
「おそらく、だがな」
平然と間諜が紛れ込んでいることを告げるエリアスの顔は虚無に近い。さほどの関心もないようであった。
一方、ルーカスは驚きを抑えるように少しだけ息をのんでから尋ねた。
「失礼ながら……なぜ、そうした結論に至ったかをお訊きしても?」
「違和感」
エリアスはズバリと答えてから、また一口葉巻を吸い、白い息を吐き出しながら続けた。
「お前も感じたのであろう? あのような美麗な姿に相反して、存在感が薄い。よほど注意深く見るようにしておかねば、すぐに忘れてしまうかのような……際立っていながら、影もたぬ幽霊のような質」
ルーカスは頷いた。
エリアスの言う通りだった。その特異な性質であればこそ、ヤミが公爵直属の諜報組織『鹿の影』の一員だろうと推測したのだ。
エリアスがヤミを『皇家の狗』であると推定した理由はそれだけでなかった。
「偶然、古い書き付けを見つけてな。ベルンハルド公の頃のものだ……」
エリアスの曾祖父であるベルンハルドが帝国内において『影の皇帝』として威勢を振るっていた頃、公爵邸には多くの間者が送り込まれた。もちろん見つかった場合、殺されたのだが、その中の一人について、誰かの書いた覚書があったらしい。
「今は皇家における裏の任務は、ほとんどがシューホーヤの戦士たちが担っているが、彼らが主流となる前には、見目麗しい間諜がしばしば暗躍したらしい。もっとも、私もそのことを思い出したのは、その書き付けを見つけたときだ」
「何と書かれてあったのですか?」
「『皇家の狗』の特徴だ。容姿端麗、光撒くような銀髪、蒼氷色の瞳、やや尖り気味の耳の形、首の後ろに火炎様の黥。女を使って確かめさせたが、まったく同じだ。同一人物ではないかと思えるほどにな」
「それは奇妙なことですな。ベルンハルド公の頃であれば、五十年以上も前の話。子孫でありましょうか?」
「さぁ……。いずれにせよ確証もないことゆえ、身近に置いて様子を見ていたのだ」
「左様でございましたか……」
ルーカスがやや呆然と、つぶやくように返事すると、エリアスは皮肉げに頬を歪めた。
「残念であろうが、ヤミを小公爵の影とするは、保留とした方がよかろうな」
「……ご存じでありましたか」
「『鹿の影』は鹿にだけつくのだ。仔鹿にはつかぬ。それが彼らの矜持だからな。お前が色々と画策して動くは自由だが、彼らは継嗣争いに関わらぬ。公爵となった者の前にだけ、姿を見せる」
「なるほど……ヤミは色々と特殊であったわけですね」
エリアスは頷いてから、話を元に戻した。
「ヤミが『皇家の狗』である可能性は高いが、奴を飼っているのは皇帝ではないようだ」
「そうお思いになられる理由をお聞かせ願えますか?」
「この数ヶ月間、帝都にいる間に何か言ってくるかと思ったが、皇帝も彼の周囲の者も、特におかしな動きはない」
ヤミにはミーナの過去について探らせているので、当然、オヅマが大公の隠し子であることも知っている。彼の飼い主が皇帝であるならば、この件について何かしら探りをいれてきそうなものであった。
「ダーゼ公も常と変わらぬしな」
「なるほど。確かにダーゼ公であれば、知りながら無視することはできそうもない」
清廉にして、やや直情傾向のある宰相公ダーゼならば、態度にも表れやすいだろうと、ルーカスは思ったが、エリアスは首を振った。
「あの方も、嘘をつくと決めれば、まことご自分を騙すほどに見事に嘘をつき通す方だからな。むしろそうなれば皇帝などよりも厄介ではあるのだが……おそらくご存じではないのだろう。例の新たな街道の件で数度会ったが、大公のことなどまったくかすりもしなかった」
ここでルーカスは、エリアスがわざわざヤミについて尋ねてきた意図を悟った。
「わかりました。私の方でもヤミを見ておくこととしましょう。飼い主が誰であれ、用心に越したことはない」
「話が早いな」
物分かりのいい腹心に、エリアスは笑みを浮かべて葉巻を喫んだ。
ヤミが二重スパイであると推測しつつも、エリアスは彼のことだけに時間をとられるわけにはいかなかった。
公爵の職務は広範で膨大なのだ。職務権能がそれぞれの大臣に割り当てられている皇帝よりも、直接に裁決せねばならない案件が多く、多岐にわたるため、それぞれの事案についての勉強なども必要で、時間はいくらあっても足りない。
そろそろ持て余してきた頃合いに、都合よくルーカスがヤミを『鹿の影』の一員と知って近付いてきた。ルーカスがヤミと接触をはかろうとするならば、いっそすべてを伝えて、彼にヤミの動向を監視してもらったほうがよい。ヤミはルーカスが近付いてきた目的を、小公爵側に引き入れる為と考えている。多少、しつこく話しかけても、疑義を生じることはないだろう。
エリアスは深く息をつきながら背もたれに寄りかかった。話が終了したという合図であったが、ルーカスは立ったままであった。
「なんだ?」
エリアスが鬱陶しそうな眼差しを向けると、ルーカスは気まずそうに話を切り出した。
「その……ペトラの娘であるサラ=クリスティア嬢のことですが」
「……あぁ」
ペトラという名を聞くなり、エリアスの眉間に皺が寄る。
「娘がどうした?」
「今はレーゲンブルトにおりますので、ヴァルナルの帰参次第、こちらに連れて来てもらう予定です。つきましては、正式に公女として認知していただく必要があろうかと」
「…………」
エリアスは視線を落とした。
ペトラの産んだ子を見たのは一度だけだった。
小さなベッドの中で、足をバタバタと動かす姿は、アドリアンの同じ頃と比べると活発であった。エリアスがじっと見つめると、ピタリと動きを止め、鳶色の瞳でじっと見返してきた。怖がりもせずにまじまじと見つめてから、やにわにあー、あーと奇声を上げて手を伸ばしてくる。
エリアスはハッと我に返った。
赤ん坊の瞳に吸い込まれて、自分が思いもよらぬ行動をとりそうになっていたことに愕然とすると同時に、どこにぶつければいいのかわからぬ怒りが湧いた。すぐさま踵を返して、赤ん坊に背を向けて以降、一度も会ったことはない。
「……母親についてはどうするのだ?」
公女として認知するのであれば、皇府に届けを出す必要がある。その際、母親についても申告せねばならない。
エリアスは自分と並べて、あの女の名前が併記されるのかと思うと、腹立たしかった。だが、有能な腹心はエリアスの心中を既にくみ取ってくれている。
「名は残さず、第二夫人としてのみ記載します」
「……よかろう」
「では」
短く辞去を告げて出て行こうとするルーカスに、エリアスは声をかけた。
「その娘、今はレーゲンブルトにいると言ったか?」
「はい? そうですが」
「ならばこちらに送るにあたって、ヴァルナルと共に男爵夫人にも来るよう伝えよ。不測のこととはいえ、我が娘が面倒をかけたのならば、礼をせねばならぬであろう」
「……承知しました。クランツ男爵に申し伝えます」
ルーカスは承りながらも、内心首をかしげた。
一体、どういう意図で、わざわざ男爵夫人を呼びつけるのだろうか?




