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昏の皇子  作者: 水奈川葵
第七章

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第三百六十五話 最良の友人(1)

 その後、アドリアンは時間を見つけては茶寮『七色蜥蜴(とかげ)の巣』を訪れるようになった。とはいっても、待ち合わせたわけではないので、必ずランヴァルトに会えるとは限らない。

 最初はランヴァルトが来ていないとガッカリして、待っている間も心許(こころもと)なかったが、そのうちスヴェンの入れてくれた蜂蜜ミルク入りの珈琲を飲みながら、一人静かに本を読んで過ごすのも悪くないように思えてきた。


 やがて何度か通ううちに、ここに頻繁に通い詰めている何人かと面識を持つようになった。彼らは当然、アドリアンの身分を知らなかったが、子供だと馬鹿にすることもなく、極めて礼儀正しく接してくれた。中には、その時にたまたまアドリアンが読んでいた本の著者だという人から、声をかけられることもあった。


 アドリアンはこの静かな空間で、徐々に心が穏やかに()いでいくのを感じた。それは反面、それまで自分の気持ちがささくれ立って、少しのことにも過敏になっていたということでもある。

 実際に、そうだった。帝都に到着してから、あちこちの茶会や朗読会などに招かれ、美辞麗句とお追従(ついしょう)ばかりを聞き、公爵邸においての夜会でも、皇宮(こうぐう)の園遊会でも揉め事続き。

 特にこの数日のカーリンの騒ぎは、アドリアンを相当に疲弊(ひへい)させていた。


 余裕が生まれると、アドリアンは今更ながらに、カーリンへの態度を悔いた。

 彼女がファルミナの実家において弱い立場であることはわかっていたのに、女だと判明した途端に、ひどく取り乱して冷たい態度をとってしまった。

 しかもエーリクまでも疑ってしまった。今日だって護衛としてついて来て、下の部屋で飲食もせず待ってくれている忠義者であるというのに。


 アドリアンは本を置くと、何度目かのため息をついた。

 窓の外、紅葉の間から見える秋の空が遠い。

 カーリンはもうそろそろ、レーゲンブルトに着いただろうか……。


「沈んだ顔だな、アドリアン」


 不意に声をかけられて、アドリアンはハッとなった。

 すぐに声のしたほうを向くと、いつの間にかランヴァルトが以前と同じように真向かいの一人掛けソファに腰掛けている。


「かっ……あ、いえ……先生」


 もう少しで閣下と言いそうになるのを、あわてて止めてここでの言い方に直す。

 ランヴァルトがニコリと笑った。


「結構。ちゃんと覚えていてくれてなによりだ」

「はい。あの……お久しぶりです。お元気そうで何よりです」


 アドリアンは顔が急に熱くなるのを感じながら、ともかく挨拶した。ランヴァルトに会えた嬉しさを、素直に伝えたつもりだったが、ランヴァルトは皮肉げに笑った。


「ふ……なかなかに厳しいことを仰言(おっしゃ)るではないか。そう久しいほどに会っていなかったかな?」

「ち、違います! 嫌味とかじゃないです。全く!」


 アドリアンはあわてて否定した。ランヴァルトにだけは、自分の心を疑われたくなかった。必死で言い訳の言葉を紡ぐ。


「その……僕にとっては、その……とても長く感じられたということです!」

「それはそれは……ならば謝らねばな。すまぬ。いろいろと私も皇宮(こうぐう)からの呼び出しが最近、多くてな。今代(こんだい)神女(みこ)姫は老齢で、そろそろ危ういかもしれぬゆえ」

「あっ…ああ。そ…うなんですね」


 アドリアンは思わず声を上げてしまってから、あわてて取り繕ったものの、目を合わせることができなかった。その不自然な様子に、ランヴァルトは何かしら感じ取ったらしい。フッと視線を落とした瞳に、少しばかり暗い影がよぎった。

 しかしスヴェンが持って来た珈琲を一口飲むと、またニコリと穏やかな微笑に戻って尋ねてくる。


「それで、どうしてまた、物憂い顔をしてため息などついていたのだ?」

「いえ……その、少し後悔していて。近侍にきつく当たってしまったので……」


 ランヴァルトは驚いたように、軽く肩をすくめた。


「近侍への八つ当たりなど大貴族の若君であれば、よくあること。若君の我儘につき合わされるのも、近侍の役割だ。そもそも君が理不尽に怒ることなどなかろう。きつく言ったのも理由あってのことでは?」

「それは……そう、なんですが。でも、彼にはどうしようもなかったんです。それはわかっていたはずなのに……」

「ふむ……」


 ランヴァルトは頷くと、珈琲をまた一口含んでから問いかけてきた。


「その近侍というのは、我が息子に暴力をふるわれていた、あのルビーの髪の者か?」


 アドリアンはうつむけていた顔をパッとあげる。笑みを浮かべるランヴァルトと目が合った。


「否定せぬところを見ると、図星というわけか」

「…………はい」

「それでこの前も暗い顔をしていたのだな。フ……近侍ごときのことに頭を悩ますなど、君らしいことだ。いや、失礼。馬鹿にしたのではない。我が息子との違いに、感心していたのだ」

「……感心されるようなことはしておりません。結局、僕は彼を傷つけてしまったのですから」

「私には、むしろ傷ついているのは君であるように見えるがな」


 アドリアンは虚を突かれたように、またランヴァルトを見つめた。

 穏やかで、温かく包みこむような眼差しに、すべてを打ち明けてしまいたい衝動にかられる。だが、もちろんすべてを言うようなことはできない。

 アドリアンは膝の上で固く拳を握りしめた。


「僕のことは、いいのです。僕は……慣れています」

「それは違うな、アドリアン」


 ランヴァルトは即座に否定した。紫紺の瞳が強い光を帯びる。


「人は……傷つくことに慣れはしない。心の痛みは、ひととき(しの)げても、沈殿して奥底に(おり)をつくる。長く積もれば…………人を闇とするだろう」


 最後の小さなつぶやきが、重く、深く、響く。

 一瞬、訪れた沈黙は、そのままランヴァルトの心に巣食う闇の世界であるかのようだった。自らの内奥を見ているかのように、伏せた瞳は暗く、空虚だ。

 だが、ランヴァルトはハッと我に返ると、心配そうなアドリアンに微笑みかけた。


「そうならぬために、人は時折、相談ということをするのであろうな。それが解決できるかどうかではなく、誰かに胸の内を知ってもらうことが、慰めとなる」

「…………」


 アドリアンは少し考えた。

 オヅマがいれば、少しは違っていたのだろうか。だが、もしオヅマがいてくれたとしても、アドリアンのこの煩悶(はんもん)をすべて理解してもらえると思えなかった。

 オヅマは快活で、明朗で、いつも正直で……すべてのことに答えをくれる。だが、アドリアンが欲しいのは解答ではない。


「僕は……自分でも整理できなかったんです。何が起こったのか、どうするべきか、ちゃんと考えられないまま、自分の気持ちだけで、彼の事情も悩みも聞かずに、突っぱねてしまった……」


 話しながら、アドリアンは心底自分が不甲斐なかった。

 キャレの不遇を思い、あれこれと気にかけてはいたが、結局、自分という人間はキャレに信頼されていなかった。自分にもし、目の前のランヴァルトほどの安心感があれば、キャレも……いやカーリンも、自らの秘密を告白してくれていたのかもしれない。

 情けなくてアドリアンは泣きそうだった。

 それでもランヴァルトの前でこれ以上ぶざまな姿をさらしたくなくて、必死で唇を噛みしめる。

 また沈黙がしばし流れ、ランヴァルトが言った。


「君は、強いな」


 朗らかな、深みのある声が、アドリアンの胸をうつ。それはズキリと痛くて、けれど沁み入るように優しかった。

 アドリアンは顔をうつむけた。目からこぼれ落ちるものを見せたくない。

 いっそ、軽蔑されたほうがよかった。小公爵であるというのに、情けないことばかり言っている自分を、突き放してくれたほうがよかった。きっと父であれば、そうしただろう。

 だが目の前の人は、そんなアドリアンに最も欲しい言葉をくれる。……

 アドリアンは必死に嗚咽(おえつ)を押し殺し、肩を細かく震わせていた。


 時折、強く吹いてくる風がガラス戸を叩く。ボーンと階下の時計が朱の二ツ刻(*午後四~五時頃)を告げる。


 静かな時間を妨げたのは、意外な生き物だった。


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