第三百五十一話 オヅマと三人娘(2)
「えっ?」
いきなり自分に振られて、カーリンは驚きつつも、とりあえず返事した。
「あ、あの……そ、そうですね。一応、そっと起こすと思います」
「ホラ見てごらんなさい。お兄ちゃんよりも、カーリンの方がよっぽど優しく起こしてくれるでしょうに。まったくアドルも……なんでもかんでもお兄ちゃん頼りはよくないわよ。もっと人をえらばないと!」
わかったふうに言うマリーに、オヅマは腕組みしてフン、と鼻を鳴らす。
「お前らはアドルの寝起きの悪さを知らないから、そんなことが言えるんだよ。そっと、だぁ? ちょっと揺すったくらいで起きるんなら、俺だって苦労しねーわ。だいたいなぁ、カーリン。お前だって何度か寝坊してたろうが。食事時間に遅れてきて、マティに怒られてたくせに」
「そ……それは、前の日に復習をしていて……」
「言い訳すんな。お前だけが復習してんじゃねぇよ。俺だって、マティだって、エーリクさんだってやってる。テリィさんは……わかんねぇけど」
近侍の中で二番目の年長者であるテリィは、すでに履修済みだといって、勉強についてはあまり真剣ではなかった。彼が本気で取り組んだのは、得意のピアノが弾ける音楽くらいだが、オヅマはあまり彼の演奏が好きではなかった。腕自慢が鼻について鬱陶しい。
「……すみません」
結局カーリンが謝ると、マリーが猛抗議した。
「カーリンは関係ないでしょ! お兄ちゃんとアドルの話をしているんだから」
「お前がいきなりカーリンのことを言ってきたんだろ!」
ビシリと兄に言い返されて、マリーは一瞬ひるんだように口を噤むと、チラとカーリンを窺った。垂れるようにうつむいた顔は、悲しげで、元気がない……。
マリーは再び緑の瞳に強い光を浮かべて、キッと兄を見返した。
「だってアドルってば、お兄ちゃんばっかり贔屓しているじゃない。私はカーリンとだって仲良くしてほしいの!」
「別に、仲が悪くなったわけじゃねぇだろ。キャレって男だと思ってたのが、カーリンっていう女の子だってわかって、びっくりしてるだけだ」
オヅマには、アドリアンとカーリンの仲がそんなに悪くなったとは思えなかった。アドリアンは元々キャレ(であったカーリン)に同情的であったし、話せばわかる人間だ。今は驚いて、自分でもどう接すればいいのか掴みかねているだけだろう。
大したことでもないように言うオヅマに、マリーはブンブンと首を振った。
「だって、だって、アドルってばひどいのよ。カーリンが女の子だってわかった途端に出て行け、なんて。カーリンにだって言いたいことがいっぱいあったのに。わたし、今度の手紙ではアドルにちょっと文句を言おうかと思ってるの」
オヅマは眉をひそめた。
この数日一緒にいたせいか、マリーはカーリンの境遇に同情的だ。だがカーリンのことは、一方的な話を聞いて判断していい問題ではない。
レーゲンブルトに来るまでの旅程で、オヅマはマッケネンからカーリンの追放が色々と複雑な思惑のもとに決められたことだと聞いている。
アドリアンの態度が急変したのは、当然、今まで男だと思っていたキャレが女だと知った衝撃もあったろうし、裏切られたというのもあるだろう。しかし本当は、どこかで自分を笑い者にしている存在がいるのだということが、一番腹立たしいのだ。おそらく。
むしろ、オヅマにとって今はカーリンよりアドリアンが心配だった。
マッケネンからオヅマ宛てだと託された手紙にも、アドリアンはカーリンについては一言も書いていなかった。
皇家の園遊会に行ったことや、来年のアカデミー入学に向けての勉強がいよいよ難しくなってきたことなど……なんてことのない日常の、ちょっとした愚痴程度のものだ。
マリーがもらったものも、同じような内容だった。違いはそこにオヅマへのちょっとした恨み節が混じっていたことぐらい。
本当であれば、これだけの大騒動だ。
アドリアンが何も書かないはずがないのに、あえて書いていないことが、アドリアンの心情を語っていた。
つまり語りたくないくらい、怒っている。あるいは動揺している。
今のアドリアンの状態はあまりよくない。……たぶん、とても不安定な気持ちでいるだろう。
「マリー、お前……そういうのはやめておけ」
オヅマが真剣な顔で言うと、マリーは怪訝に兄を見つめた。
洞察力の優れた妹は、すぐにオヅマの変化を感じ取ったらしい。じっと見つめてから、静かに尋ねてくる。
「どうして?」
「アドルはお前からの手紙をすごく楽しみにしてるんだ。読んでガッカリさせるな。そんなこと……しないでやってくれ」
マリーは口を開きかけて、ゆっくりと閉じるとうつむいた。
ちょっと頭に血が上ってしまったようだ。あんまり仲の良さげなアドルと兄に、少しばかり嫉妬してしまったのかもしれない。……
「アドリアン……お兄様は、きっと大変なんでしょうね。私なんかと違って」
シンと静まりかえった中で、口を開いたのはティアだった。
当初、ティアはアドリアンのことを「アドリアン小公爵様」と呼んでいたのだが、マリーが改めさせた。
「ティアがどうしてもイヤっていうなら、無理にとは言わないけど、アドルは素直に『お兄ちゃん』って呼ばれたほうが、喜ぶと思う」
と。
さすがにマリーのように気安く『お兄ちゃん』とは呼べないものの、それからは話の中でアドリアンの話題になると、ぎこちないながらも『アドリアンお兄様』と呼ぶようになった。
「私は……公爵家からは見放されてるけど、でも、エッダさんのところで刺繍しているときは夢中になって、何も考えずにいられたし、今だってこうして楽しく過ごせているけど……アドリアンお兄様は、公爵邸にいる限り、気の休まることがないんだろうなって。あそこは綺麗だけど、冷たい場所だと……お母様がよく仰ってました」
ティアは話しながら、亡くなった母親の姿が脳裏に浮かんでいた。
酒に溺れ、毎日泣きながら、公爵邸に戻れる夢を見ては、同時に「あんなところは地獄同然だ」と吐き捨てていた母……。
最後まで詳しいことを聞けずじまいではあったが、ティアにとって、公爵家は決して心穏やかに過ごせる場所ではない。オヅマや、カーリンからの話を聞く限りにおいて、兄であるアドリアンも同様のようだ。
「まぁ、ここみたいにとはいかないさ。今はな」
少し重くなった沈黙をかき混ぜるように、オヅマがまた軽い調子で言う。ティアは思わず聞き返した。
「今は?」
「アドルが公爵になったら、変わるさ。あそこも」
はっきりと確信したように言うオヅマを、ティアはまじまじと見てから微笑んだ。
「やっぱり、マリーの言う通りです」
「は?」
「ずるいです。オヅマさんとアドリアンお兄様の仲が良すぎて、カーリンじゃなくても羨ましくなってしまいます」
その場にいた女子全員の総意であったのか、マリーが「そうよ、そうよ」とまた騒ぎ出すと、カーリンまでもジトっとした目でオヅマを見てくる。
オヅマはもうこれ以上何を言っても無駄……というより、かえって勘違いが積み重ねられる気がしてきて、早々にその場から出て行った。
出た途端に部屋の中から、三人の笑い声が響く。オヅマは振り返ってドアを睨みつけてから、ふっと頬を緩めた。
ともかくもカーリンにもティアにも笑顔が戻った。それでよしとしよう。




