第三百二十四話 カーリンとキャレ(1)
二人揃って暗い顔でうつむく姿を見て、ルーカスは軽くため息をついた。
どうやら交渉は失敗に終わったらしい。
ベントソンの私邸からの連絡を受け、ルーカスと一緒に来たヴァルナルが、エーリクに尋ねた。
「何があった?」
エーリクは頭を下げると、うめくように言った。
「申し訳ございません。ご命令を果たすことができませんでした!」
ルーカスは二人の前の椅子に腰掛けると、理由を話すように促した。チラリとエーリクの隣で、身を縮こまらせているカーリンを見やる。この数日の出来事に疲弊しきった顔は、青白く、痩せこけていた。
「ご命令通り、ファルミナに向かいました。途中、カーリン嬢の具合が悪くなることもあって、少しばかり到着時間は予定より遅れたのですが、ちょうど夜の訪れた頃合いでファルミナの領主館に到着したので、人目に付くことなく、キャレ公子と母親の住まう家を訪ねることができたのですが……」
***
エーリクは勝手知ったるカーリンの手引で、領主館裏手の林から、邸内へと入った。
ファルミナの領主館は、他の多くの領主館と同じようにやや勾配のある土地の上に建てられており、前面には町が、後背には雑木林が広がっていた。邸内の主要な建物と領主家族が過ごす館は、おもに前面側に集中しており、林の方は一応動物避けに塀があったものの、所々崩れた部分もあり、門に見張りもなかった。領主家族の住む中心部の館周囲に堅固な内壁があるため、外壁についてはおざなりになってしまったようだ。戦の日々が遠のき、財政状況も芳しくない貴族の屋敷においては、よくあることだった。
内壁と外壁の間にある裏手の庭には、使用人たちが自分達用に作ったわずかな畑のほかは、旧修練場のあった場所も雑草だらけで、すっかり荒れ果てていた。その古い修練場にあった、騎士らの休憩所であったところが、カーリンら親子の住む小屋だった。
「あちらから人が来ることはほとんどないので……」
カーリンは警戒するエーリクに、弱々しく言った。
基本的にカーリンたちは無視される存在だった。彼女らの住まいは、鬱蒼としたイチイの木に隠されるようにしてあったが、これは親子達が現男爵夫人の目に触れることのないよう、茂る枝葉をはらうこともせず、あえて伸ばし放題にしていたためだった。
もっともそのおかげで、エーリクの黒角馬 ―― イクセルを連れて入っても、気付かれずに済んだのではあるが。
日も沈んでそろそろ寝ようという時間にやって来たカーリンとエーリクに、カーリンの母・ゾーラはまるで幽霊でも見たように腰を抜かした。
驚く母に動揺した弟のキャレは、ひどく混乱したようだ。
「い、いいい、い、い、一体、なにィ? 何ぁに? なんぁんだよ! お前らはァ!? 勝手に来て、何ぁんだ! 誰だ? 出てけ、出てけ、出てけェッ!!」
金切り声を上げながら、なだめようとするカーリンにやみくもに殴りかかる。手をブンブン振り回して、顔でも胸でも叩きまくって、腹にも蹴りをいれる。
カーリンは彼らが落ち着くのを待っているかのように、黙って弟からの情け容赦ない暴行を甘受していたが、見ていたエーリクは当然ながら黙っていられなかった。
「いい加減にしろ!」
一喝して、その弟の腕を掴み上げる。すると今度は母親がヒィィと、これまた甲高い悲鳴を上げて、エーリクの足に縋りついた。
「やめてェ! やめてやってちょうだい!! そんなことをしたら、キャレが死んでしまうぅー」
「うわぁぁん! 痛いいィィ、痛いいィィ」
母親の悲鳴を聞いた弟は、同じように叫びながら、大袈裟に泣き始める。泣きながら、ブンブンとエーリクの手を振り回す力は、まぁまぁあったので、エーリクはすぐに彼の現状について把握できた。要するに、十分に元気だろうということだ。
エーリクはざっと弟の容姿を見た。
ランプの明かりだけなので、細部はわからないが、確かにカーリンの言ったように、異性の双子とはいえ顔つきは似ていた。
今はおそらく姉に化けているからだろう。長く伸ばした髪は、確かに赤い。ただ、カーリンのように定期的に洗髪をしていないからなのか、お世辞にもルビー色の艷やかな美しさはなかった。
それにカーリンからは、ここでは最低限の食料しかもらえなかったと聞いていたが、この目の前の弟は、カーリンが公爵家に来たばかりの頃に比べると、断然に肉付きが良かった。今のカーリンと遜色ないほど……というより、入れ替わるのであれば多少食事制限をして、痩せさせる必要があるように思える。
その差にエーリクは少し釈然としないものを感じたが、いずれにしろ、どちらのことも修正可能な範囲だと冷静に分析した。
ただ、エーリクをにらみつけてくる瞳は、同じ緑色であったが、なんだか少し濁って見えた。これは主観的なものも入っていたのかもしれない。つまり、エーリクのこの弟に対する第一印象は、すこぶる悪かった。
「エーリクさん、離してあげて下さい。キャレはすぐに痣になってしまうんです」
カーリンからも言われて、エーリクはしぶしぶ弟の腕を離した。
よろけて無様に尻もちをついた弟に、母親がすぐさま駆け寄って、親子はヒシと抱き合った。
「うわぁぁん! 痛いィィ! 母さぁん、痛いィィよぉ」
「可哀相に、可哀相に。おぉ、キャレ。痛かったろうねぇ、可哀相にぃぃ」
いちいち大袈裟な親子二人のやり取りに、エーリクは呆気に取られるばかりだったが、カーリンは無表情に弟と母の様子を眺めていた。
やがて親子二人がすすり泣くようになると、そっと腰をおろして声をかけた。
「キャレ、お母さん。私です。カーリンです」
母親はゆっくりと顔をあげると、まじまじとカーリンを眇め見て、つぶやいた。
「カーリン…?」
弟もじっと姉を見つめてから、突然すっくと立ち上がると、バシリとカーリンの頬を打った。
「びっくりさせるなァ! お、お、俺の心臓が止まったらどうするんだァッ」
エーリクは驚くと同時に、さっきから姉への暴行を繰り返す弟に対して、さすがに我慢ならなかった。一歩、前に乗り出すと、カーリンがすぐさま制止する。
「エーリクさん。大丈夫……私は大丈夫ですから……」
落ち着いたカーリンの様子から、エーリクはすぐに理解した。カーリンにとって、こんなことは日常なのだと。




