第三百十五話 ガルデンティアの主(1)
大公城ガルデンティア ――― 帝都近郊のガルデンティアの丘の上に建てられたその壮麗な屋敷を、帝都の人々は『城』と呼んだ。
それは実際に帝都防衛のため、皇宮を中心に周囲八箇所に作られた、城塞の一角でもあった。
だが、ただの城塞ではなく同時に大公の居所でもあることから、主の品格に見合うだけの体裁は求められたのだろう。
皇帝から、先の皇嗣争いにおけるランヴァルトの活躍の褒賞として与えられたとき、この城塞は他の七つの城塞と同じように、実戦を想定しただけの外郭の一防衛拠点に過ぎなかった。それを『大公としての威容を損じることのないように』という皇府からの条件付きで貰い受けたランヴァルトは、半年で見事に壮麗なる城へと変貌させた。
城の外壁を藍黒石という、南方でしか採掘できない希少な石で覆ったのだ。
そのほかにもいくつかの館を新築したり、内装や園庭も、大公家としての面目に恥じないものに整えられたが、これらはすべてランヴァルト個人の私費によって行われた。つまり皇府はランヴァルトという稀代の英雄を使役しつつ、彼が必要以上に力をつけぬようにと、細心の注意をもって彼を牽制していたのだ。
ランヴァルトの方もこの程度のことは想定していた。
表面上、平和で穏健な治世の裏で、ありとあらゆる不穏の目を摘むことは、皇府における常套手段であったから。それが皇帝主導であれ、その従順なる配下の者によってであれ、目をつけられぬよう彼らの意図をいち早く汲み取って行動することこそ、皇家に生を享けた者の処世術であった。
彼は皇府からの疑念を解消するために、この大公城改築において、皇帝個人から借金までした。そのことは大っぴらにはされないまでも、皇帝当人と宮廷内においては、冷やかしの対象ともなった。
借金そのものは三年で返済したものの、この事実はいつまでも宮廷内において大公を馬鹿にする恰好のネタにされた。もちろん、ランヴァルトはあえて許容した。それが彼の狙いであったからだ。
いずれにしろ、大公城はその異様なる外観ゆえに『黒城』『夜城』(中にはいささかの冷笑を込めて『蝙蝠の巣窟』と呼ぶ者もいたが)などと呼ばれ、勇壮でありながら、気品高く、典雅な趣を称える歌が、数多の吟遊詩人たちによって作られた。
『夜空を纏った』と歌の文句になるほどに、藍黒石の艷やかな美しさで固められた城を、ガルデンティアの麓に住む人々は称賛し、自慢しあった。
***
その夜城において、皇宮から戻ったランヴァルトを待っていたのは、息子とその母だった。自らの居室にて待ち構えていた二人を、ランヴァルトは冷ややかに一瞥した。
「誰がここに入る許可を与えた?」
静かな声であったが、それだけでも彼らは威圧されて言葉が出なかった。
実のところ、この居室に入るにあたって、親子は大公の従僕から止められた。だが、現在大公の唯一の妻であるシモン公子の母、ビルギット・アクセリナ・モンテルソンは横柄に申し立てた。
「妾はこの大公家における女主人ですよ。其の方らごときに制止される身分ではありません。控えなさい!」
母親の姿に追従するように、シモン公子も従僕らを責め立てた。
「お前たちに母上を止める理由などない。控えろ!」
従僕たちは早々に説得をあきらめた。大公が戻れば、彼らが顔色を失くし、震えながら跪くであろうことを予想していたからだ。実際に目の前でその通りの状況となった彼らを見て、従僕らは内心ほくそ笑んでいた。
「お、お…お許し下さいまし。我が子のことで、重大な決定がなされたと聞きまして、寛恕を願いたく罷り越しました」
震えながらも、なんとかビルギットは夫に申し立てた。いかにも萎らしく、なよやかに姿をつくって。
ランヴァルトはビルギットの媚態を無視し、軽く首をかしげた。側にいたヴィンツェンツェ老人がボソボソと告げた。
「先程の、グレヴィリウス小公爵との件につきまして、シモン公子様にリヴァ=デルゼの下で、修行をなさるよう決められたことにございます」
ランヴァルトはフ…と笑い、マントの留具を外した。すかさず従僕たちが取り囲んで、主の装飾品を手際よく取ってゆく。最後に頭巾をとると、赤黒く変色した切創が露わとなった。
頭頂部から眉間近くにかけて、醜く這う蚯蚓のようなその痕は、本来であれば美麗なるランヴァルトの顔に瑕なすものであったが、不思議と年経るに従い、年長者らしき風格とともに、魁偉なる威容を持たせた。
シャツとズボンに、従僕からかけられたガウンを羽織っただけの軽装となった彼は、椅子に腰掛けると、肘掛けに肘をついて、愚鈍そうな顔をした母子を見つめた。
「なにが重大なのだ? その程度のことで」
「その程度ではございません! あの女戦士は、狂っております。この前にも修行と称して、騎士相手に半死半生のむごき行いをして、その騎士は立つこともできず、盲目になったというではありませぬか! もし、シモンも同じような目に遭って、もし、殺されでもしたら……!」
ビルギットは声高に、涙声で訴えた。実際に目に涙も浮かべた。しかしランヴァルトの返答は冷たかった。
「あの程度で死ぬのであれば、それまでだ」
ビルギットはヒクッと喉を詰まらせ、ハンカチで目元を拭いながら、大袈裟に愁嘆した。
「そのような……シモンは大公殿下の、ただ一人の子でございますのに……」
しかしその言葉にランヴァルトの表情は一気に消えた。一切の感情のない虚ろな紫紺の瞳。酷薄な視線に、ビルギットの涙は引っ込んだ。気まずそうに目線を泳がせてから、あわてて話題を変える。
「そ……それに、今、シモンはアカデミーにて勉学に励んでおります。修行などで体を痛めて、授業に欠席するようなことになれば、他の公子方々との交流も途絶え、大公家嫡嗣としての面目も……」
「嫡嗣と決めた覚えはない」
鋭くランヴァルトが言うと、またビルギットはうっと詰まって、唇を噛み締めた。
世間では大公の継嗣となる男子がシモン一人であるため、シモンが大公家嫡嗣と見られていたが、ランヴァルトはその点について明言したことはなかった。それどころか、今や明確に否定した。
ビルギットは曖昧なうちに我が子の世襲を固めようとしていたのだが、今この場において、それははっきりと打ち砕かれた。
悔しげにうつむく母親と、冷たく自分を見る父親の間で、うろたえたのはシモンだった。彼は大公家の嫡嗣であると幼い頃から母親に言われ、周囲からもそのように扱われていたので、すっかりそのつもりであった。
「そ、そんな……だって、僕は…僕は、父上の子ではありませんか……」
弱々しい息子からの問いかけに、ランヴァルトは鬱陶しげにため息をついた。
「お前が乃公の息子というのならば、リヴァ=デルゼの修行ごときに恐れをなして、それを母親に直訴した挙句、母子二人して嘆願に来るなどという醜態は見せぬものだ。それに……勉学?」
ランヴァルトはコツコツと肘掛けを中指で打ちながら、皮肉げに口もとを歪めた。
「その年になってもまだ二葉(*アカデミーにおける学習進度の指標。最大九葉)しか取れぬ者が言うことか? 来年には成人(*十七歳)を迎えるというのに……いったい、三年の間に何を勉強していたのだ?」
「そ、そ……それは……去年は病気で休むこともあって……」
「小賢しい。言い訳ばかり達者だな」
吐き捨てるようにランヴァルトが言うと、壁際に並んでいた従僕らが静かに嘲笑する。シモンは真っ赤になって、母親同様に俯いた。
ランヴァルトはしばらくの間、無表情に、この情けない母子を見つめていた。
コツコツコツと肘掛けを叩いていた中指が止まると、うっすらと口の端に笑みを浮かべて言った。
「リヴァ=デルゼの修行を受けることを免除してやってもよい」




