第三百十一話 神女姫となる皇女(2)
「あの……よろしかったのですか? お忙しいのでは?」
神女姫として忙しいイェドチェリカに迷惑だったのではないかと、アドリアンは恐縮して言ったが、当の神女姫(正確には次代)であるイェドチェリカは、「いいえ、まったく」と笑った。
「まったく?」
「えぇ。神殿にいて、神女姫が忙しいことなんてなくてよ。ほとんどのことは巫女たちがやってくれるもの。神女姫なんて古の言伝えで出来上がった、ただの張り子よ」
少し投げやりなイェドチェリカが気になったが、アドリアンは何も言えなかった。
確かにイェドチェリカの言うように、神女姫という存在は一種の象徴だ。彼女らは神女姫となることを定められた日から、シュルハーナの神殿に籠もる。出てくるのは、新年の行事のときにパルスナの安寧を祈る舞を舞うときと、新たな皇帝に祝福を与えるとき、それと皇帝が亡くなったときの鎮魂の儀式のみ。それらですら皇宮の中の一部領域でしかなく、普段においてシュルハーナ神殿は皇家の人間以外、入ることは禁じられているのだ。だから『お祈り』と言っても、実際に何をしているのかはアドリアンすら知らなかった。
それ以上イェドチェリカは神女姫の仕事については触れず、他愛ない天気の話なんかをしながら歩いて行く。
話しながら、薄黄色の木香薔薇に覆われた四阿の中へと入っていくと、目を引いたのは、ワゴンに乗せられた巨大な物体だった。茶色い布が被されたそれを見て、アドリアンはすぐにわかった。さっきイェドチェリカが「削氷」と言っていたから、おそらく氷であろう。
まだ夏の日差しの残るこの季節に、あんな大きな氷を、こんなささやかな茶会に持ってきてしまう皇家の権力を、今更ながらに思い知る。
しかし一方で、白いテーブルの上に並べられていたお菓子の中に、皇宮で饗されるものとしては珍しいピーカンナッツのパイを見つけて、思わずアドリアンはまじまじと見つめてしまった。
「どうかして? アドリアン」
「あ……いえ」
自分の行いがはしたないことだと気付き、アドリアンはすぐに目線をそらせたが、イェドチェリカは注意深く窺っていたようだ。
「ペカンパイが気になるようね。もしかして、貴方も好きなの?」
「は、はい。あ……皇女様もお好きなんですか?」
「……えぇ。偶然にね。食べることがあって」
イェドチェリカは微笑みながら、アドリアンを席につかせると、手ずからパイを切り分けてくれた。目の前に置かれたパイは、前にアドリアンがレーゲンブルトで食べたものとほぼ同じだ。違いは、わざわざイェドチェリカが、アドリアンのために切って取ってくれた、ということ。
アドリアンがそれを食べていいものかどうか迷っていると、横からじろじろと見ていたアレクサンテリが渋い顔になって言った。
「なーんだか、ゴロゴロと木の実がいっぱい乗ってて、不格好な食べ物だなぁ。栗鼠用のパイみたいだ。姉上、まさかこのお茶会に、栗鼠やら熊やらを招待しているんじゃあないでしょうね?」
「あらあら、まったく。文句の多い皇太子様ですこと。うるさい御方を黙らせるには、こちらの方がよろしいようね」
そう言ってイェドチェリカが、ワゴンの前に立っていた下女に目を向ける。
ワゴンに乗っていた巨大な物体から布が取り払われ、案の定、透明な氷の塊が現れた。専用のナイフを持った下女が氷を削り、それを別の下女が精巧にカッティングされた硝子の器の中に受けていく。
こんもりと盛られた氷が目の前に置かれると、アレクサンテリは途端に上機嫌になった。
「わーい! やったぁ。さー、蜜をたぁーっぷりかけてぇ……」
すっかりはしゃいで、陶器に入った茶色の蜜をたっぷりと氷の上にかけていく。氷が全部溶けるんじゃないかというくらいに、蜜を回しかけるアレクサンテリにあきれて、イェドチェリカが制止した。
「アレク、あなたかけすぎよ。アドリアンの分がなくなってしまうわ」
「あ、ごめん。足りなかったら、お前、持ってきてよ」
アレクサンテリは悪びれもせず、側に控えていた下女に命じる。
「まったく。取りに行くのだって、手間だというのに。サトリ、頼めるかしら?」
イェドチェリカは怒ったように言いつつも、弟の我儘を受け入れて、下女に頼んだが、アドリアンはあわてて止めた。
「いえ! あの、僕は甘いのは苦手なので、いいです。このままで十分……」
「まぁ、アドリアン。氷だけなんて、なんの味もしないわよ」
「……いいんです」
アドリアンは小さく返事しながら、心の中でつぶやいた。どうせまともに味なんてわかりそうもない……と。
イェドチェリカは困ったように、少し考え込んでから、ニコリと笑った。
「だったら、私と同じ蜜でもいいかしら? あまり好む人は少ないけれど……」
「え?」
「やめておけ、小公爵。姉上の味覚は、我々から少々かけ離れておいでだからな」
アレクサンテリが即座に止める。自分はたっぷり蜜のかかった氷を食べながら。
アドリアンは二人を交互に見てから、おずおずと言った。
「あ……よろしければ、イェドチェリカ様と同じものをいただきたい……です」
言いながらまた顔が赤くなってくるのを感じて、アドリアンは自然と俯いた。その様子を眺めて、イェドチェリカはクスリと笑った。
「もちろんよくてよ、アドリアン。まったく、この謙虚さを誰かさんにも見習っていただきたいものね」
やんわりとした嫌味も、アレクサンテリはパクリと蜜氷を食べて受け流す。弟の高慢な態度に、イェドチェリカはため息をついてから、テーブルにあった細口の瓶を手に取った。中には薄い緑色の液体が入っている。サラリとしたその液体が、アドリアンに用意された削氷の上にかけられると、わずかに溶けて、キラキラとした緑色の氷になった。
「食べてみて頂戴」
イェドチェリカが悪戯っぽい目で勧めてくる。アドリアンはちょっとだけ逡巡した。昔からこの悪戯好きの皇女様は、たわいもないことだけれども、アドリアンを驚かせるようなことをしてくるのだ。だがアドリアンは自分が驚いているのを見て、楽しそうに笑っているイェドチェリカが好きだった。
「……いただきます」
サクリ、と陶器のスプーンですくって食べる。一口、口に入れた途端に冷たさと一緒に酸味が伝わってきて、アドリアンは目をしばたかせた。だが喉に流し込むと、ほのかな甘さが口中に残った。
「あーあ、酸っぱかったろう? まったく、姉上も何を好き好んで、こんな酸っぱいものをかけて食べるんだか」
まるで自分が食べたかのように、酸っぱそうに口をすぼめてアレクサンテリが悪態をつく。無礼な弟のことはすっかり無視して、イェドチェリカはアドリアンの顔を覗き込んだ。
「どう? アレクの言うように、酸っぱかったかしら?」
「あ……いえ。酸っぱかったけど、美味しいです」
アドリアンが素直に言うと、アレクサンテリは信じられないように肩をすくめた。
「ライムの汁の蜜なんて、なにがおいしいんだよ」
「あ、ライムの汁なんですね。どこかで食べたような、覚えのある味だと思った」
イェドチェリカはフフっと笑って、自分の氷にもそのライムの果汁の蜜をかけた。
「ライムをれんげ蜜に漬け込んだシロップに、色付けのデチュルの葉を加えて、少し煮立たせたものよ。本当は、れんげ蜜に漬け込んだライムを氷の上に乗せて、一緒に食べるとまた美味しいらしいけど……」
「ライムを氷の上に乗せて、食べる?」
アレクサンテリは聞き返して、ウゲーと舌を出した。
「ライムを氷に乗せて食べるなんて。勿体ない。栗鼠のパイといい……姉上、いったいどこで、そんな下品なものを覚えてきたんですか?」
ライムを蜂蜜などに漬け込んで食べるのは、庶民の定番料理の一つだった。夏にはそのまま食べたりするし、冬まで残ったものはケーキに乗せて焼いたりもする。
そういえばレーゲンブルトにいた頃に、ピーカンナッツのパイ以外にも、オヅマの母のミーナがこのライムケーキを作ってくれた。オヅマが上に貼り付いているライムばかりさっさと食べてしまい、マリーからしこたま怒られていたのを思い出す。
「……そういうものが好きな人がいたのよ」
イェドチェリカはアレクサンテリの質問に静かに答えて、削氷を一口食べると、思い出し笑いをするアドリアンに問いかけた。
「アドリアン、なんだか幸せそうに笑っているわね。なにかいいことでも思い出したのかしら?」
アドリアンはハッとなって、笑顔を引っ込めた。
時々、この皇女様といい、亡くなられた前の皇太子といい、皇家の人というのは妙に鋭い。
「あ、いえ……ちょっと。近侍の一人に、ライムの蜜漬けが好きなのがいたと思って」
「…………あら、そう」
イェドチェリカはニコリと相槌を打った。
その返答が少しだけ、ほんの少しだけ遅かったのに気付いたのは、アレクサンテリだけだ。その声音がやや沈んで聞こえたのも。
だが彼は「やっぱり削氷は糖蜜だ~」とわざとらしく言って、姉のかすかな動揺を見逃してやった。
「近侍の好きな食べ物まで知っているなんて、アドリアンは目下の人間にも、ちゃんと気を配っているのね。あなたの近侍になった者は、幸せそうだわ」
「そう……でしょうか。その、彼はちょっと、特別なので」
イェドチェリカに褒められるのが妙にこそばくて、アドリアンは削氷をスプーンでつつきながら、小さな声で言う。
イェドチェリカは首をかしげて、先を促した。
「特別?」
「えぇ。お互いに率直というか……僕も彼に文句を言いますし、彼も僕の悪いところは遠慮なくズケズケ言ってきますし……喧嘩もしますが……」
言いながらアドリアンは考えた。オヅマは、自分にとってどういう存在なのだろう?
その答えは考えるよりも早く、口からこぼれでた。
「……一番、信頼しています」
イェドチェリカは数年前まで、どこか気弱で自信なさげだった小公爵が、すっかり大人びた顔になり、胸を張って言うのを聞いて、にっこり微笑んだ。
「そう、良かったわ。あなたも、その近侍の子もね」




