第三百十話 神女姫となる皇女(1)
桟橋にたどり着くと、アドリアンは水夫が手を出す間もなく舟から飛び出した。
走って近づこうとして、途中で突き出た岩に足を取られ、待っていた人の手前にぶざまに膝をつく。
「まぁ、アドリアン。そそっかしいことね」
美しい声が降ってきて、そっとアドリアンの手を取った。
フワリ、と甘い香りが漂ってくる。
「魔除けの花の……」
アドリアンがつぶやくと、目の前の女性がニコリと笑う。両端を上げた唇に、薄らと紅が引いてあることに気づくと、アドリアンは奇妙な部分がドキリとして、思わず目を伏せた。
「まったく。姉上を見た途端に豹変するじゃないか、小公爵。手まで握っちゃって」
あきれたようにアレクサンテリが言ってくる。アドリアンは自分に添えられた手に気付き、あわてて手を離した。
「す、すみませんっ! 皇女様」
あわてて立ち上がる。すると皇女・イェドチェリカは目を丸くしてアドリアンを見つめた。
「まぁ……アドリアン。貴方にだけ時間が早く回ったのかしら? 随分と背が伸びたのではなくて?」
「あ、それは……はい」
アドリアンは、イェドチェリカに成長した自分の姿を見られるのが、少しだけ恥ずかしかった。背をやや丸くして、赤くなってうつむいていると、フフとイェドチェリカは笑って、アドリアンの手を再び取った。
「さぁ。こちらにいらっしゃい。この暑さの中、舟になんか乗ったから、顔が赤いわよ。削氷を頼んであるから、あそこで食べましょう」
手を握られてアドリアンがドギマギと挙動不審になるのもお構いなく、イェドチェリカは四阿へと進んでいく。
「おぉぉ、さすがは次代の神女姫様。ちゃんと蜜はかけていただけるんですよね?」
アレクサンテリは削氷と聞いた途端に、目の色を変えた。二人を追い越して、我先にと四阿へ駆けていく。イェドチェリカはクスクス笑った。
「相変わらず、甘ったるいものが好きねぇ、アレクは」
あきれたように言う、柔らかな声音が懐かしい。アドリアンが聞き入っていると、イェドチェリカが振り返った。
「風は少し涼しくなってきたかしら……ね、アドリアン?」
「……は、はい」
「フフ……声も少しだけ変わったわね」
「え……あ、そう……でしょうか?」
「えぇ、そうよ。変わったのはわかるけど、貴方がおチビちゃんだった頃の声が、もう思い出せないわ」
その婉麗な微笑を、アドリアンはボーっと見ていたが、それが強い日差しのせいでのぼせているのか、久しぶりに会ったその女に魅入られているのか、自分では判然としなかった。
湖の上を渡ってきた冷たい風に、イェドチェリカの真っ直ぐに伸びた純黒の髪が、サラサラと揺れる。その様はまるで古代の絵から抜け出てきたかのような、どこか異質で玄妙な、言葉にできない美しさだった。
皇帝の第五皇女であるイェドチェリカ・シェルバリ・グランディフォリア。
当年十七歳になる彼女は、ヤーヴェ湖を隔てた西南の小国からやってきた王女を母として生まれたが、王女はイェドチェリカらを産んだときに亡くなった。
イェドチェリカはその黒髪と、黒き瞳 ―― 月映し綺羅星煌めく『夜貴ノ瞳』を持っていることで、生まれたその場で神女となることが決められた。
皇家においては、基本的に金髪碧眼の子が多く生まれる。歴代皇帝はそれと決められてはいなかったものの、全てが金髪であった。これは代を重ねるごとに、皇帝は太陽と同じく光り輝く金の髪でなければならぬ……という不文律になっていった事情もあっただろう。
特にアレクサンテリなどは、色濃い鬱金の髪と、紺青の瞳という初代皇帝エドヴァルドと同じ特徴を持っていたので、先の皇太子が亡くなり、彼が皇太子として立太子したときには、「エドヴァルド大帝の生まれ変わりたる、アレクサンテリ殿下!」と、喝采を叫ぶ者もいた。
無論、皇后側妃は帝国内外から皇帝に嫁いできて子を生すわけだから、母方の血を引いて赤毛や茶髪、銀髪の皇子もいたし、緑や栗色の瞳を持つ皇女もいる。だが二百有余年の歴史を持つ皇家においても、黒髪の子供はほとんどいなかった。
というのも、そもそも黒髪を持つ一族は、徹底的に排除されたからだ。
(アドリアンやエリアス公爵もまた黒に近い髪ではあるが、厳密には暗い橙味を帯びた黒檀色の髪である)
黒髪 ――― 特にイェドチェリカのような純黒の髪は、ホーキ=シェン神聖帝国において貴人と呼ばれる人々だけが持っていた。
神聖帝国を征服する過程で、エドヴァルドは彼らを徹底的に駆逐・殲滅していき、エドヴァルドの死後も、歴代皇帝治世下のパルスナ帝国において、いわゆる『貴人狩り』は続けられた。
『神聖帝国の貴人は根絶やしにする』。
それはパルスナ帝国創建時からの国是であった。野に下ったわずかな生き残りですらも抹殺され、彼らはこの世から絶滅した。
だが、皆殺しにされた貴人の中で、唯一生存を許された者がいる。
その唯一人こそが、初代皇帝エドヴァルドの伝説の妻にして、宝冠なき皇后 ―― いわゆる『名もなき神女姫』だった。
彼女の黒髪は子である二代目皇帝ヴェルトリスには引き継がれず、その次代を経て彼女にとって曾孫にあたる皇女の代において発現した。当初は不吉とされ、この皇女を殺すことすら考えられたが、女児が誕生した日の夜に皇帝の枕辺に『名もなき神女姫』が立ち、告げた。
―――― 皇家に誕生する黒髪の赤子は、神女として、主母神サラ=ティナに仕えさせよ。
以来、皇家に生まれた黒髪の女児(不思議とこれが女児にしか黒髪は生まれない)は、生まれると同時に、ヤーヴェ湖に浮かぶ孤島・シュルハーナの神殿にて、生涯をサラ=ティナ神に仕えることが決められた。
黒髪の女児が生まれぬ場合においても、帝国の安寧を祈る立場である神女姫の存在を途切れさせるのはよくないとして、彼女らが老いたり病気などで亡くなった場合は、その時、皇家にいる未婚の皇女が神女姫となることが決められた。
そんなわけでイェドチェリカは、生まれた翌日には皇宮を出て、シュルハーナ神殿にて次代の神女姫となるべく育てられた。
ちなみに現在の神女姫は先代皇帝の娘で、既に老齢でほぼ寝たきりとなっているらしい。そのため、毎日のお祈りも含めた実際の神女姫としての役割のほとんどを、イェドチェリカが担っているのだという。
だからアドリアンは、今日、皇宮に来ても、彼女に会えるとは思っていなかった。きっと新年の祭祀などで忙しいだろう……と。
元々、アドリアンとイェドチェリカを会わせてくれたのは、先代の皇太子であったシェルヴェステルだった。彼が亡くなって以来、イェドチェリカとアドリアンを繋ぐ縁は途絶えてしまい、昨年も一昨年も、シェルヴェステルが病に臥せるようになったその前の年から、アドリアンは彼女と会えなくなっていた。
そうしてずっと気にかけていたからだろう。アレクサンテリとの謁見の場で、当代の神女姫の容態がよくないという話が出ると、思わず口走ってしまった。
「あの……イェドチェリカ様は、お元気でいらっしゃいますか?」
会うことは諦めていたが、せめて消息なりと知りたかったのだ。
その言葉を聞いたときのアレクサンテリの反応は、特に変わらなかった。
「元気だよ」といつもの調子で軽く答えつつ、こっそりシュルハーナの神殿にいるイェドチェリカに、鳩でも飛ばしたのだろう。
アドリアンはチラリとアレクサンテリを見遣った。視線を感じたのか、目が合う。アレクサンテリはパチパチとわざとらしくまばたきすると、ニィッとおおきく口の両端をつり上げた。劇の合間に出てくる回し者の道化のような、作り物めいた笑顔だ。
アドリアンは軽くため息をつくと、イェドチェリカに尋ねた。




