第三百六話 アドリアンと正義の公女
アドリアンはテリィから大公家のシモンという名前を聞いた途端に、一昨年前の諍いを思い出し、すぐさま向かった。
昨年はあちらが病を患ったとかで、皇家での宴席にすべて欠席していたので顔を合わすこともなかったが、やはり何かしら燻っていたのだろう。
えっちらおっちらと、ほとんど歩いているに近い速度のテリィを追い立てるように走って、ようやくその場所にたどり着くと、少年たちに囲まれて暴行を受けていたキャレが、今しも力を失って倒れそうになっていた。
「やめろ!」
鋭く制止すると、アドリアンの声にビクリと震えてシモンが振り返る。
キャレを足蹴にしていた近侍たちの動きも止まり、その隙に、エーリクがアドリアンを追い越して、彼らの前にズンと立った。自分たちよりも年上と思しき ―― おそらくエーリクのほうが年下ではあるのだが ―― 長身の男に威圧され、シモンの近侍たちが後ずさると、エーリクは彼らをギロリと睨みつつ、倒れたキャレを抱き起こす。
「どういうことです、これは?」
アドリアンが尋ねると、シモンは病のせいか痘痕の残る顔に、嫌味たらしい笑みを浮かべて言った。
「それはこちらも聞きたいことだ。グレヴィリウス小公爵には、我らになにか遺恨でもおありか? 近侍を使って、無礼を働くとは」
「無礼? キャレがなにかしましたか?」
「僕を誰ぞに間違えて呼び止めたのです。しかも注意をしたら、唾を飛ばしてきて……」
アドリアンは厳しい顔で、エーリクに抱えられたキャレを見る。
キャレはきれぎれに「すみません…」を繰り返すばかりだ。汚れた頬には、何か鋭利なもので切られたかのような赤い切創があった。
ギリ…とアドリアンは歯ぎしりした。
「確かに無礼があったかもしれません。ですが、それならばまずは、僕に対して抗議するべきでしょう。このように直接、罰を与えるのは行き過ぎではありませんか?」
「ふん。本当に罰を与えるのやら。そのように可愛らしい近侍では、小公爵もいつものように、情けをかけられるのでは?」
アドリアンはその意味が、よくわからなかった。だが、シモンのあばた顔に浮かんだ嗤笑に、どこかしら卑猥な、ひどくいやらしいものを感じて、一気に不快感が沸き立った。
「無礼はそちらだろう、シモン公子! 他家の近侍に対して乱暴を働いた挙句、勝手な憶測で僕を侮辱する気か!?」
二年前であれば、シモンも同じようにいきり立って、また暴力沙汰となったかもしれない。だが、二年の間にアドリアンが成長したように、シモンはより狡猾になったようだ。
「これは失礼。少々口が過ぎたようだ」
すぐさまに鉾を収められ、アドリアンはそれ以上の抗議を封じられた。
「だが、そこの近侍も謝っているように、無礼があったは事実。罰を与えるは必定。害を受けたは当方にある。後で罰したと言われても、こちらには確かめようもないこと。然らば、我らが目の前にて、この近侍、罰して頂きたい」
アドリアンはまたチラリとキャレを見てから、ぐったりした姿に唇を噛み締めた。シモンの言葉が聞こえていたのか、キャレはまだ謝ろうと、エーリクの腕の中で身じろぎする。
アドリアンはすぐにシモンに向き直って言った。
「彼は今、動けません。代わって僕が謝罪いたします」
「ほぉ……」
シモンは待ちかねたとばかりに、口を歪めた。アドリアンを睥睨して、ツイと地面を指差す。
「そこに……頭をつけて、衷心より詫びて頂こうか」
「…………」
「無理であるならば、近侍の誰ぞに代わってもらってもよいのですよぉ」
シモンの言葉に、すぐに進み出たのはマティアスだったが、アドリアンは止めた。
「いい、マティ」
「いけません小公爵さま。これではグレヴィリウスの品位に……」
「いいから……」
アドリアンはマティアスを押しとどめ、その場に膝をついた。
きつく拳を握りしめて、頭を下げようとしたとき、鋭い女の子の声が響いた。
「お待ちなさい!」
その場にいた面々はすべて、声のする方へと視線を向ける。
キャレはエーリクの腕の中で顔を動かした。シャッシャッと衣擦れの音がして、膝をついたアドリアンの横に立ったのは、先程去ったとばかり思っていたダーゼ公女だった。
「な……なんだ……」
シモンはいきなり現れた公女に、完全に面食らったようだった。
アドリアンもまた、初対面ながら自分をジロリと睨むように見る公女の迫力に、少し気圧された。
近侍らに至っては、なべて全員が驚いて口を開けっ放しになっていたが、理由はどちらかというと公女の神々しいまでの美しさに圧倒されてのことだろう。
二人の公子の様子をそれぞれに見てから、公女はフゥと息をついた。
「グレヴィリウス小公爵様、お立ちになって下さい。あなたが謝る必要はございません」
「え?」
「そのような謝罪は無用と言っています。彼は……」
ダーゼ公女はチラリと背後のキャレを見て、少し痛ましそうに眉を寄せた。
「無礼など働いておりません。むしろ、私を助けてくれたのです」
アドリアンは呆気に取られた。
目の前の少女の美しさよりも、その青翠の瞳に宿る、燃え盛るような怒りに引きつけられる。
「どういうことですか?」
アドリアンは立ち上がりながら尋ねた。
少女はジロリとシモンを睨みつけ、その強い視線に、ビクリとシモンは震えて後ずさる。
「な、なにを……」
「しらばっくれることですね、シモン公子。私が気付いていないとでも思ったのですか? 貴方は先程、私が貴方に対して、すげない態度を取ったことに腹をたてて、どうにか仕返ししてやろうと、私の後をつけてきたのでしょう?」
「ばっ……そっ、そんなことは……っ」
「後をつけて何をしてくるのかと思えば、幼稚にも飴細工を私になすりつけようとしていましたね? 否定なさる気? でしたら、そこの彼の頭にへばりついているものは何かしら? せっかく美しいルビーの髪が台無しだわ」
「ぬっ、濡れ衣だッ」
シモンは喚いたが、公女はまるで相手する様子もなかった。持っていた扇をベシリと手の中で打って、シモンを威嚇し黙らせると、クルリとアドリアンに向き直る。
「順を追ってお話ししましょう、グレヴィリウス小公爵様。私は今日、このシモン公子に舟遊びに誘われたのですけれど、気分が優れなかったので断ったのです。それから皇太子殿下との謁見を終えた後に、一人きりになれそうな場所を探して歩いていたら、誰かが後をつけてきました。
正直、そうしたことは珍しくもありません。私は無視してそのまま歩いていたのですが、突然、後ろから大きな声が聞こえました。貴方の近侍が声を上げたのです。振り返ったら、今しもシモン公子が私の頭に飴をなすりつけようとしていました。
私はそのままそこにいたら、この幼稚な公子様の脛を蹴りつけそうでしたので、お父様の教えに従って、しばらくその場を離れ、気持ちを落ち着かせていました。それから気付いたのです。貴方の近侍はおそらく、私がシモン公子に悪戯されそうだと察して、声を上げてくれたのだろうと。
それで私が戻ってきたら、貴方が今しもこの卑劣な男に、無用の謝罪をなされようとしていたわけです。お分かり頂けまして?」
おそらく自分よりも年下ながら、公女の堂々とした話しぶりにアドリアンは圧倒されっぱなしだった。それはシモンも同様であったが、ハッと我に返ると、あわててブンブンと頭を振る。
「違うっ! そんなのは嘘だッ!! 言いがかりだッ」
しかし公女はまったく臆する様子を見せなかった。ギロリと睨みつけると、一歩シモンににじり寄った。
「シモン公子。貴方はグレヴィリウス小公爵様ばかりか、私までも侮辱なさる気? どうして私が嘘を言わねばならないの? 皇帝陛下から厚い信任を受け、陛下直々に大勲章を賜りし宰相ダーゼ公爵の、ただ唯一の公女たるこの私が、いったい誰におもねって嘘を言う必要があると言われるの?」
シモンは自分よりも年少の公女相手に、すっかり気を呑まれていた。
公女の美しさはこの場合、確かに武器であった。その神々しいばかりの美貌は、気弱な人間であればひれ伏すしかない。吸い込まれそうな青翠の瞳は、それこそサラ=ティナ神の真誠の瞳であるかのごとく強い光を放ち、懦弱な嘘など見破って天罰を与えそうであった。
シモンが反論できずに、その場が一瞬沈黙すると、パンパンと手を打つ音がした。
「やぁ~、さすがさすが。白髭宰相の娘御なだけあって、なんとまぁ気の強い公女様だ~」
ニコニコと笑いながら、囃し立てるように言って現れたのは、太陽の光をそのまま写し取ったかのような、煌めく鬱金の髪の少年だった。
その傍らには、豪奢な錦の頭巾を被った男が立っている。
「皇太子殿下!?」
「大公殿下!!」
その場にいた全員が、それぞれに声を上げる。
例外はエーリクに抱えられて朦朧としていたキャレと、父大公の出現に蒼白になったシモンだけだった。




