第二百九十五話 『夢』の話(2)
エラルドジェイは最初、それをオヅマの冗談だと思ったようだった。だが、オヅマの顔にふざけた様子が微塵もないのを見ると、訝しげに眉を寄せた。
「何言ってやがる? 俺はお前に教えたことなんぞないぜ」
「……今日は野宿しよう」
オヅマが答えず歩きかけると、エラルドジェイはグイと肩を掴んだ。
「おい、ちょっと待て。ずっと思ってたけどな、初めて会ったときから、おかしかったんだよ。俺の秘名を知ってたり、いきなり泣き出したり、胡桃のことだって……!」
「わかってる。俺もおかしいと思ってる。だから、あんたには話す。話すから、今日は『狼の洞』で野宿しよう」
エラルドジェイは言葉をなくした。
『狼の洞』は、この辺りでいつもエラルドジェイが使う野宿の場所だ。誰が描いたのか、狼の絵が描かれた洞穴があって、勝手にエラルドジェイが名付けた。その名はもちろん、場所のことだって、オヅマに言ったことなどない。
折れた枝を拾いながら『狼の洞』にたどり着くと、二人は黙々と火を熾して焚いた。ユラユラと揺れる火影に照らされた洞穴の中に、下手くそな狼らしき動物の絵を見つけて、オヅマはフッと笑った。
「なんだよ?」
エラルドジェイは落ち着かないのか、些細なオヅマの仕草にも過敏になっていた。
「いや、これ狼の血で描かれたって言ってたから…」
「は? 誰が?」
「アンタが。狼の血で描いてるから、熊も山狗も寄ってこないとかなんとか言ってて…」
「そんな訳あるか」
「そうだよな。でも、俺しばらく信じてたんだ」
エラルドジェイはすっかり困惑したようにオヅマを見つめてから、フゥとため息をついた。周囲をなんとなしに見回すと、あちこちに落書きがあった。これを描いた人間は、雨にでも降り籠められて、よっぽど暇を持て余していたのだろうか。
「で?」
エラルドジェイはオヅマに視線を戻し、問いかけた。
「これだけ意味ありげな状況作っておいて、何も言わないってこともないんだろ?」
オヅマはエラルドジェイをチラと見た。やっぱり相変わらず…こういうときに人の心を解すのが上手い。冗談めかした言い方をしながら、ちゃんとオヅマの話を聞こうとしてくれる。
背後で眠っているカイルの鬣を撫でながら、オヅマは軽く息を吐いた。少し震えているのが自分でもわかる。何度か口を開いては閉じて、小さい声で言った。
「俺……夢を、見るんだ」
「夢?」
「うん。なんか……ものすごく懐かしいような、でも見たくない夢。その夢の中で、俺は……ものすごく後悔してる。ずっと、苦しくて…ずっと…」
泣きそうになる ――― 。オヅマは言いかけて、感傷的になりそうな自分に必死に歯止めをかけた。
今はあの夢に囚われてはならない。
「……その夢の中で母さんが死んで、俺は妹と二人で帝都に行くことになるんだ。だけど、子供二人の旅なんて怪しまれて、裏街道を行くしかなくて。そのときにアンタと出会って、一緒に行くことになって…そこから…ずっと、帝都に着いてからも、ずっと…世話になって……」
話すオヅマの脳裏に、夢の中でのエラルドジェイとの日々が、一気に押し寄せてくる。同時に苦いものがこみあげてきて、今ここで一緒にいることも、悪く思えてきた。
あの夢の中で、エラルドジェイは最後までオヅマを助けようとしてくれていた。それなのにオヅマは、結局のところエラルドジェイの意見を聞かなかった。
決してあの夢のようにはならないのだと、そう思って行動してはいても、暗く、つらく、苦しかったあの日々は、あまりに鮮烈で、重たくて、オヅマの願いをも無理に捻じ曲げてきそうなほどだ。
もしこの先に、あの通りの日々が待っているのだとしたら、もうエラルドジェイには近づかない方がいい。彼に頼ってはいけない。彼を犠牲者にしてはいけない。
そう思うのに、結局、こうして今も一緒にいる。
これもまた夢の中でのオヅマに沁み込んだ、エラルドジェイへの甘えだ。
騎士や公子といった身分に関係なく、オヅマを唯一人のオヅマとして接してくれたのはエラルドジェイだけだった。だからいまだに、無意識に彼に頼ろうとしてしまう。勝手なことだ。
「ふぅん…」
オヅマがうつむいて黙り込んだので、エラルドジェイは軽く相槌をうつ。
どうしたものかと、天井を仰ぎ見ると、そこにも絵があった。明らかに指で適当に描かれた狼の絵とは違い、こちらはきちんと筆で描かれたものだった。どうやら、ここで過ごす暇つぶしに、絵を見ていた者達が、そのうち思い思いに描くようになったようだ。
旅人の守護者を描いたらしい、雀の面を被った七本指の男神の絵をぼんやり見ながら、エラルドジェイはポリポリと耳裏を掻いた。
「じゃあ、その夢の中で俺に会ったから、俺のことを知ってたって訳か。初めてあの…倉庫で会ったとき」
オヅマはコクリと頷いた。
「俺の秘名も、俺がお前の夢の中で話したんだな? 胡桃で遊ぶことも、ラオのことも」
矢継ぎ早に尋ねてくるエラルドジェイに、オヅマはただ頷くしかなかった。
きっと、普通に考えればおかしい奴だと思われるだろう。
そう思われて当然だ。
これでエラルドジェイがあきれて、あるいは気味悪がってオヅマから離れるならば…それはそれでいいのだ。きっと。
オヅマは無理矢理に自分を納得させた。
だが、やはりエラルドジェイはエラルドジェイなのだった。
「なぁんだ。そういうことか。だったら……うん、わかった」
すんなりと、あまりにもあっさりと肯定するエラルドジェイに、オヅマはむしろ戸惑った。




