第二百七十七話 澄眼習得(4)
「じゃ、俺、カイルの散歩にでも行ってくるわ」
エラルドジェイは立ち上がると、カラリと言って出て行く。
オヅマがアールリンデンから乗ってきた黒角馬のカイルは、こちらでの修行の間、最低一日一回はオヅマが運動がてら乗って、周辺を散策していた。
オヅマが寝込んでいる間は、エラルドジェイが代わりに遠乗りなどに行ってくれていたらしい。どうやって乗りこなしたのかと訊けば、エラルドジェイはそれこそ夢で見たように、オヅマに黒角馬の耳と角の間のツボについて話したあとに、ふと思い出したのか、笑って言った。
「…っつーか、なんでお前に教えてるんだよ、俺は。お前、あの馬の本場にいたんだから、知ってんだろ」
オヅマは返事に詰まった。
本来であれば、黒角馬はエラルドジェイが発見したのだ。
エラルドジェイが商人に教えてやり、そこから皇家に直接納められ、軍馬としての研究が進められた。だが、その当時珍しかった純血種の黒角馬は気性が荒く、多くの者は乗りこなすのに難渋した。オヅマもその一人で、たまたま黒角馬の話題が出たときに、エラルドジェイが発見者の強みで内緒にしていたことを、教えてくれたのだ。
ベッドの上で、オヅマは意気消沈した。
あれは夢でしかないのだと言い聞かせても、どうしてもエラルドジェイに対する申し訳なさがつのる。
ルミアは珍しく悄然としたオヅマを見つめ、軽くため息をついた。
「稀能を使いすぎて廃人…か。いまだにそんなことを考えるヤツもいたんだね」
「廃人までいかなくても、あんまり無理したら、体を壊すって聞いたことあるけど…?」
オヅマが言うと、ルミアは大きく頷いて、オヅマの額をコツリと指で突いた。
「あぁ、そうさ。今のお前さんみたいにね。しかし廃人にまでなれるようなのは、さすがにもう、この時代にゃいないだろうよ」
オヅマはルミアの奇妙な言い回しに眉を寄せた。
「廃人に『なれる』?」
「ああ」
ルミアは頷くと、箱から煙草を取り出した。カチカチと火打金を鳴らし、火がつくとすぐさま煙管に詰めてふかしはじめる。
「お前さんもわかってるだろう? 稀能を発現するには、常人を超えた集中が必要だ。この集中によって、いったい何が起きているのやらわからないことは多いが、私が感じるのは一種の特殊な空間と繋がっているような感覚だ」
「特殊な…空間?」
「そう。そこでは、この世の理が一切通じなくなるというか…空間がねじ曲がるというか…時間も何もない…なにせ、この世とは別の、何かしらの流れの中に入っていくような感覚がある。お前さんはないかい?」
「………わからない。集中したときには、もう何も考えないから」
ルミアはフッと笑うと、オヅマの肩を叩いた。
「確かにお前さんは気をつけたほうがいいかもしれないね。集中が過ぎて、もし後戻りできそうもない領域にまでいっちまったら、それこそ廃人になっちまうのかもしれないよ」
オヅマは自分が稀能を発現するときの感覚を思い出そうとしたが、急に怖くなってやめた。ブルブルッと頭を振って、話を変える。
「さっき、この時代にはいないって言ってたけど…昔はいたのか?」
「そうさね。それこそ神聖帝国の時代まで遡れば、いたかもしれない。あの時代のことはほとんど文献にもないから、想像の域でしかないがね。案外とお伽噺で語られているようなことが、実際にあったのかもねぇ…」
ルミアは言いながら、遠くを見てフーッと煙を吐く。自分でも半信半疑といった感じだ。
「お伽噺? それって、体が鉄でできた巨人とか、空を飛ぶ魔女とか?」
「そう。私の知り合いに『鐡の腕』っていう稀能を持っている奴がいてね。これも集中によって、一時的に腕とか足を鉄みたいに硬くさせるものさ。あるいはそれが全身ともなれば、鎧なんぞ着なくとも済む。まぁ、そんな奴ぁ見たことがないが」
「『鐡の腕』…そんなのもあるんだ」
オヅマが興味深そうにつぶやくと、ルミアはグイとオヅマの頬をつねった。
「次から次に手を出すもんじゃないよ、まったく。いいかい。お前さんは確かに稀能と相性がいいんだろう。あの集中はそうおいそれと、誰もが真似できるもんじゃないよ。だが、嵌まることのないようにしな。廃人とまでいかなくとも、集中が深いせいで、体に影響が出やすい。成長期のせいか、制御もしにくいんだろう。前にも血を吐いたらしいじゃないか。そこまでなるなんて、よっぽどだよ」
「そうなのか?」
オヅマは意外な気がした。
それこそ夢での修練を思い出すと、血を吐くなど珍しいことでもなかった。終わって一人ベッドに横たわっても、吐き気と眩暈と頭痛で、一睡もできない日もあった。いっそ血を吐いて気絶した方がマシだと思えたくらいだ。
ルミアは腕を組むと、戒めるように言った。
「おそらくお前さんが『千の目』を発現できちまうのも、あの集中力のせいだろうよ。今回は無理させちまったが、もうしばらくは使わないようにしな。今のお前さんじゃ、まだまだ早い」
「要は、しっかり体を作れ…ってことだな」
オヅマは軽く嘆息した。
結局、最初にヴァルナルに稀能を教えてほしいと頼んだときから、状況はそう変わってないというわけだ。
「だったら、もっと年とってから来れば良かった」
オヅマがつぶやくと、ルミアも頷いた。
「まったくだよ。ベントソンの長男坊もなんだって、こんな早くに来させたんだか」
「え? 今が一番いい時期なんじゃないの? 成長期に修練した方が、伸びるから…って」
前にルーカスが言っていたことと矛盾するルミアの言葉に、オヅマは困惑した。
最後の一吸いをして、灰を捨てながら、ルミアは当然のように話す。
「まぁ…確かに伸びるのは伸びるが、反面、制御がしにくいってのは、さっきも言ったろ? 諸刃の剣なんだよ。早くに習得して反復して練習に励めば、若くして熟練した遣い手になるっていう良さもあるが…私ゃ、あんまり勧めないね。いっても二年や三年のことだ。男は十から十二歳あたりで最初の成長期があって、それが一旦止まったあとに、十五、六くらいから、またズゥンと大きくなる。その時でもいいんだよ。実際、ヴァルナルはそうだったろう?」
「えぇ? じゃあ…」
オヅマは考え込んだ。
この時期にルーカスがオヅマを遠ざける目的で、ここに来させたのであれば、つまりオヅマを帝都に行かせたくなかったということになる。オヅマも元々行きたくもなかったので、願ったり叶ったりではあるが、なにかしら隠された意図があるのだろうか…?
しかしオヅマが考えるのを遮るように、ルミアがパンパンと手を打った。
「あぁ、また考え込んじまって! さぁさ、寝た寝た。治ったら、シュテルムドルソンに行ってもらうつもりなんだから」
「シュテルムドルソン?」
鸚鵡返しに問いかける。
そこはズァーデンの高地を下って、東南にある小さな町だ。ズァーデンはグレヴィリウス公爵家の直轄領だが、シュテルムドルソンは確か配下の貴族家の領地であった。
どこの家だったか…と、それこそ所領配置の地図を思い浮かべていると、フワフワと心地よい睡魔が訪れる。ちょうどよい眠りへの呼び水となったようだ。
なぜか小言をいうマティアスの顔が浮かんだが、オヅマは完全に無視して目を閉じた。




