第二百五十五話 グレヴィリウス家の夜会(2)
そこに立っていたのは、くすんだ金髪に赤茶色の瞳の、ふっくらとした容貌の貴婦人だった。
たっぷりと白粉を塗った白い顔から年齢を推し量るのは難しいが、ややたるんだ顎下には、所謂『豊満のネックレス』と呼ばれる、くっきりと深い皺が一筋あった。
ヨセフィーナ・オーサ・エンデン・グルンデン侯爵夫人。
アドリアンの叔母であり、現公爵エリアスの異母妹。
実家であるグレヴィリウスから、エンデンの姓を受け継いだ彼女は、間違いなくこの場において、最も高貴な女性であった。
「叔母上…お久しぶりです」
アドリアンは丁重に挨拶するものの、彼女のにこやかな微笑みに対して、笑顔を向けることはなかった。
ヴァルナルとルーカスの顔も引き締まる。
「ごきげんよう、ベントソン卿」
明らかに強張った顔の男たちを気にかける様子もなく、ヨセフィーナは片手を差し出した。
ルーカスは眉を寄せたものの、差し出された手を持ち上げるように取って、軽く頭を下げ、形式的な挨拶を返した。
「佳き日にございます、侯爵夫人」
元平民の成り上がり貴族と蔑まれていたヴァルナルは、彼女に無視されるのが常であったので、そのまま立っていたのだが、今回なぜかヨセフィーナはヴァルナルにも手を差し出した。戸惑いつつ、ヴァルナルもルーカスと同じように貴婦人への礼を行う。
ヨセフィーナはゆっくりと手を戻しながら、満足そうに笑みを浮かべた。
それからおもむろに、ヴァルナルに向かって話しかけてきた。
「そういえば、クランツ男爵は再婚されたと、お聞きしました」
「は…」
「すぐにも妾には、紹介いただけるものと思っておりましたのに、アールリンデンにお越しになることもなく、新年の上参訪詣にもおいでにならぬとは……よもや患いの種でも抱えておいでかしら?」
柔らかい物言いの中に含まれた痛烈な侮蔑に、ヴァルナルは言葉をなくした。何を言われたのか、一瞬、わからなくなって、怒るよりも、いっそ呆気にとられる。
患いの種 ―― つまり男爵夫人となったミーナの身体に何かしらの問題があるのか、ひいては不具者であるのかと皮肉っているのだ。
いち早く気付いたルーカスが、それとなくたしなめた。
「ご心配には及びません。しかし侯爵夫人、たとえ家臣の一人とはいえ、クランツ男爵は歴とした帝国貴族にございます。その奥方に対し、会いもせぬうちに身体の瑕疵をまず問うとは、侯爵夫人らしくもない軽忽なるお言葉でございますな」
しかしルーカスの、怒気を押し殺すあまり平坦になった冷たい声音にも、ヨセフィーナは全く臆さなかった。「あら、まぁ!」とわざとらしく驚いてから、ホホホと笑う。
「そのような非道いことは申しておりませんことよ、ベントソン卿。ただ、突然に貴い身分となった者であれば、礼儀を身につけるのも大変でございましょうから、さぞ難渋されて、体を壊されたのかと思いましたのよ。でも、そのように勘違いをなさるような物言いをしたのは、確かに妾の不徳でございますわね。ご不快な気分にさせたのであれば、謝りましょう、クランツ男爵」
ヨセフィーナの言葉は、いちいち一筋縄ではなかった。
最後の言葉などは、言外に「妾に頭を下げろと言う気か?」と問うている。
無論、格上の侯爵家、しかも公爵閣下の妹であるヨセフィーナに対し、ヴァルナルが謝罪を求めることなど、できるはずもなかった。
「いえ…妻が健康であることをわかっていただければ十分でございます」
ヴァルナルは今になって沸々と怒りが湧いてきていたが、もはや苦言を言う場面は過ぎ去っていた。唇を噛み締め、先程ヨセフィーナが手を差し出してきた理由に、ようやく思い至る。
それまではにわかに男爵となったヴァルナルを明らかに馬鹿にして無視していたのに、今日に限って礼を求めてきたのは、貴族として認める代わりに、ここに連れて来なかったミーナについて嫌味を言いたかったのだろう。
案の定、ヨセフィーナはまたヴァルナルに問いかけてくる。
「それでは、いかような理由があって、男爵夫人は来られぬのでしょう? 畏くも皇帝陛下に対し、年初の礼を欠くなど…よほどのことでございましょうね?」
「それは…領地に残した息子が病弱でございますゆえ、その世話を…」
ヴァルナルが説明を終わらぬうちに、ヨセフィーナは扇で口元を隠して、眉をひそめた。
「まぁぁ…そのようなことは女中にでも任せればよろしいことでございましょう、男爵。あぁ、そういえば男爵夫人は元々、ご子息の世話人だとか? でも、だからといって妻女となさった以上、いつまでも世話人同様に扱うというのはいかがかと思いますよ。男爵が奥方に対し、使用人のように接しておられれば、周囲の者たちも奥方を侮ることでしょう。彼女の品位を疵付ける真似をなさっておられるのは、むしろ男爵、貴方ではございませんこと?」
もし、その言葉が本心からのものであるならば、ヴァルナルも首肯して、自らの行いを反省したことだろう。しかしヨセフィーナの勝ち誇ったような顔に、そうした思慮深さは感じられなかった。むしろ白々しく聞こえてくる。
だが反論もできず、ヴァルナルが黙りこんでいると、ヨセフィーナの左右に立っていた貴婦人たちが、それぞれに声を上げる。
「さすがでございますわ、グルンデン侯爵夫人」
「侯爵夫人のお言葉を聞けば、きっとクランツ男爵夫人も勇気づけられることでしょう」
「侯爵夫人のおやさしいお心遣いには、いつもながら頭が下がる思いでございます」
彼女たちは大仰なほどにヨセフィーナを称賛し、中にはヴァルナルにあからさまな皮肉を言ってくる者までもいた。
「殿方は何かというと、妻子を残して都に来たがるものですもの。まだ新婚であられるのに、男爵夫人もお可哀そうに…」
婦人方からの白眼視に、ヴァルナルはひたすら耐えるしかなかった。女性相手に声を荒らげることなどできない。まして今は夜会の最中なのだ。華やかな宴席で怒声を上げるなど、もってのほかだ。
ヴァルナルは気づかれぬように、静かに長く息を吐いて、心を落ち着かせた。
しかし無表情になって口を噤むヴァルナルの姿に、そばにいたアドリアンは我慢できなかった。
貴婦人連中に向かって、鋭い視線を向ける。
「クランツ男爵は誰よりも奥方に対して礼を尽くしておられます。勝手な憶測で、本人を目の前にして誹謗するなど、それこそ無礼なことです」
それまで静かであった小公爵が急に口出ししてきたので、貴婦人たちは驚いて固まった。
それこそ自分の悪口を目の前で言われても、何も言ってこないおとなしい小公爵が、まさか自分ではない他人を庇うなど思ってもみなかったのであろう。
だが、ヨセフィーナは扇で口を隠したまま、すっと目を細めた。
ツイ、と一歩近づくと、アドリアンの前髪にそっと触れて、ニコリと笑った。
「本当に、どんどんお兄様に似てきて…こうして『二本の剣』を従えている姿も、まるでお兄様の真似事をなさっておられるかのよう」
『二本の剣』は、ヴァルナルとルーカスを指し示したものだろう。
『真似事』という言葉も含めて、そこはかとない揶揄を感じながらも、アドリアンも言われた二人も反論はしなかった。
「…亡きリーディエ様がご覧になられたら、きっと喜ばれたことでしょうね。それとも寂しくお思いになるかしら? 残念ながら小公爵様の容姿には、御母上に似たところが、まったくございませんもの」
愉しげにヨセフィーナは言ってから、ホホホと声に出して笑う。
チラ、と隣の貴婦人に視線を向けると、亡き公爵夫人の名前が出てきて、強張った顔になっていた彼女らも、慌てた様子で次々に同意した。
「えぇ…まったくでございますわ」
「公爵閣下にはよく似ておいでですけれど、公爵夫人のお姿を思い浮かべることはできませんわね」
「リーディエ様は鴇色の髪の色でございましたし、瞳もサファイアのように青くていらっしゃいました」
「そうそう。そういえば、ハヴェル様のあの青のピアス。元々は公爵夫人の瞳の色に合わせて公爵閣下が職人に作らせたものだそうですわね。大変、お気に入りだった大事な品を、ハヴェル様に譲られたのだとか」
「それは仲良くされておられましたものねぇ。まるで実の親子のように…」
言いかけて、彼女は口を噤んだ。さすがに本当の母親のいる前で言うには、不適切と感じたのだろう。
だがヨセフィーナは笑みを崩さず、胸にそっと手を充てて、いかにも大事なものを抱くかのようにして、優しく話を続けた。
「よいのですよ。本当に公爵夫人には感謝するしかございません。ひとときの時間ではございましたが、我が息子を我が子同然に慈しんでくださって…ハヴェルには今も忘れえない大事な御方でございます」
叔母の話を聞くほどに、アドリアンの心は冷えていった。
無表情な顔が凝り固まり、鳶色の瞳はガラス玉のようになった。
これにはヴァルナルは自分のことよりも怒りが湧いた。
一見、無邪気にみえる婦人らのおしゃべりに、悪意しか感じなかったからだ。
進み出て注意しようと思ったときに、新たに現れた人物が、やんわりと彼女らを制止した。
「小公爵様の前で、あまり故人について、訳知り顔に語るものではありませんよ」




