第二百二十四話 公爵が天秤にかけたもの(1)
公爵の問いに、ヴァルナルの答えは早かった。
「私はミーナと別れるつもりはありません。オヅマも…大公殿下に稀能の教えを受けることになったとしても、息子であることに変わりはありません」
「………そうか」
公爵は頷いた。相変わらず表情は乏しかったが、うつむけた顔はどこか苦く、憂いを帯びて見えた。
ヴァルナルは少し気になったが、ルーカスが話を先へと進めていく。
「父権については、ある程度の時間をかければ、ヴァルナルであっても主張することは可能でしょう。再婚相手の連れ子とはいえ、今は正式に息子であるのですから」
「勝算があるのか?」
公爵が不機嫌そうに尋ねると、ルーカスは余裕のある笑みを浮かべた。
「私自身は非才の身ですが、歴代の妻たちは有能な者が多いもので。二番目の妻は、こうしたことでの実務に長けておりましてね」
「あぁ…」
ヴァルナルはすぐに思い当たった。
ルーカスの二番目の妻、レティエ・フランセンはいわゆる訴訟代理人(或いは交渉人)だった。
その職業は国に正式に認められているわけではないのだが、法に疎い者たちに代わって、裁判などの交渉事を行う人間は古くから存在している。
彼らの身分は貴族であったり、平民であったり、果ては博徒であることすらもあったが、一貫しているのは優秀でなければ続けられないということだった。
訴訟代理人を名乗るのは勝手であったが、実績がなければ信頼を得られない。誰からも必要とされなくなると同時に、彼らは仕事を失うのだ。
有象無象にいる訴訟代理人の中でも、レティエはその界隈では有名で、顧客の多くは中流貴族の女性だった。これは元々、不幸な結婚をした友達の相談に乗るうちに、法律を学ぶようになったせいでもある。
「女性側からの離婚の相談なども多くこなしていますから、当然ながら子供のことについても俎上にのぼることが多いようです。効果的な方法くらいは考えてくれるでしょう」
ヴァルナルは少しばかり気まずかった。
前妻も彼女の相談者であったと聞いていたからだ。
「俺に力を貸してくれるのか? レティエ女史が」
心細げにヴァルナルが言うと、ルーカスは鼻で笑った。
「なんだ? 心配しているのか? お前は彼女から言わせると、そう悪くない夫だそうだ。なにせ離婚に早々に応じた上に、ほとんど希望通りに慰謝料も払ったからな。金をケチらなくて良かったな」
ヴァルナルは何も言えなかった。それも結局は面倒だったから、さっさと済ませたかっただけなのだ。
あの当時は戦争が一旦終結したものの、いつまた戦端が開かれるかもしれないという緊張状態が続いており、とても家族のことなど考えていられなかった。
今更ながらに自分の身勝手に後悔し、悄然となるヴァルナルを無視して、ルーカスは話を元に戻す。
「いずれにしろ、新年の上参訪詣に男爵夫人を連れて行くのは、控えたほうがいいだろうな。先程、公爵閣下も言われたように、万が一にでも大公の目に入れば、気付かれる可能性は高い」
ルーカスの指摘にヴァルナルは頷いた。
「それは、最初からそのつもりだった。ミーナもオリヴェルのことが心配であるからと…帝都へ行くことは前向きでなかったし」
「それこそ物見高い輩に群がられては、たまったものではなかろうしな。だが、今回は許されても、毎年病弱な息子を理由にして、奥方が帝都に訪詣もせぬでは、陛下への不遜だと騒ぎ立てる者も出てくるやもしれん。覚悟はしておくことだ。オリヴェルの病気についても、寒い北の地では体にこたえるのではないのか? 温暖な帝都の方が、案外快方に向かうかもしれんぞ」
「………考えておく」
二人の話し合いがまとまったところで、公爵はゆっくりと椅子の背に凭れかかった。
「よかろう」
短く言って瞑目する。これは『話は終わった』という意思表示だ。
ヴァルナルは無言で頭を下げると、部屋を出た。
***
一方、ルーカスは閉じられた扉の前で、去っていくヴァルナルの足音が徐々に遠くなっていくのを聞き、その場にいないことを確信してから振り返った。
その顔にはさっきまでの余裕綽々とした小憎たらしい笑みもなく、むしろどこか切実だった。
「エレオノーレ様のことを、故意に話題から遠ざけましたね…?」
公爵はゆっくりと瞼を開く。鳶色の瞳が冷徹さを帯びてルーカスを見ていた。
無言の公爵に、ルーカスは重ねて問うた。
「閣下。オヅマとエン=グラウザを天秤に乗せるおつもりですか?」
公爵はのっそりと背もたれから体を起こすと、再びヒュミドールから葉巻を取った。先を切って火をつけ、味わったあとに、ふぅと煙を吐く。
「エン=グラウザは重要な土地だ。喜んで渡したわけではないのだからな」
その言葉は肯定を意味していた。
ルーカスは難しい顔になって考え込んだ。
おそらく公爵は、十三年前のエレオノーレ元大公妃の自死と、ミーナがオヅマを妊娠したことに関係があるとみているのだろう。
公女エレオノーレは元から皇帝の后になるべく育てられた娘だった。
その相手が当時皇太孫であったジークヴァルトであろうが、それ以外の皇子であろうが、『皇帝』という身分に嫁ぐべく教育を受けてきたのだ。
しかし先代皇帝死亡後に起きた政争で、グレヴィリウス公爵家が積極的に皇太孫ジークヴァルトへの支持をしなかったこと、エレオノーレが当時の彼の愛妾に度重なる嫌がらせを行ったことで、彼女は皇后の地位から除外された。
新皇帝となったジークヴァルトは、半ば強引にエレオノーレを大公家に嫁させた。
当然ながらエレオノーレは不満であったし、皇帝になれなかった男に興味もなかった。
それが黒杖までも賜るような勇者であり、帝国建国以来の秀才と呼ばれる男であっても、彼女の矜持を満足させられるものではなかったからだ。
エレオノーレと大公との仲は冷え切っていた。
そんな夫婦は貴族であれば珍しいものではなかったろう。
大公のような身分の男が、他に愛妾を持つことも、特に責められることでもない。事実、エレオノーレの輿入れの後に伯爵家の娘が側室に入って、早々に子供をもうけている。(現在、彼女が実質的な大公夫人としての役割を担っているが、すでに大公の情はなくなっているようだ。)
ミーナの何がエレオノーレの気に入らなかったのかは、わからない。
夫の相手としては、あまりにも身分の低い、西方の血の入った娘を嫌ったのかもしれない。
帝国において、貴族階級であれば特に、西方の民を差別する因習は隠然と残っている。公爵邸にいた頃にエレオノーレが露骨に彼らを嫌った様子はなかったが、これは当時の公爵邸に、西方地域の出身者が下女下男くらいしかいなかったせいであろう。エレオノーレにとって下女下男の類は、木立の影程度にしか認識されなかったのだから。
またあるいは驕慢な態度を示しつつも、大公に対して独占的な愛情を持っていたのかもしれない。さっきヴァルナルと話していたようにランヴァルト大公のその昔といえば、帝都中の女性の憧れの的であったのだから。
公女として生まれて、何をしても罪の意識のない彼女のことだ。
皇宮女官として育成している側仕えの娘一人、罵倒して追い出すことに躊躇などなかったろう。
先程ミーナは穏便な言い方をしていたが、あるいはエレオノーレ本人から聞くに堪えない怒罵を浴びせられた末に、追い出されたのであったら…?
掌中の珠のごとく可愛がってきた側女が、ある日突然姿を消した。
それがひとかけらの愛情もない妻によって放逐されたのだと知ったとき、あの大公が、果たして何もせずにいるだろうか……?




