第二十話 マリーの決意
ここで話をマリーに戻そう。
泣きそうになりながらオヅマに手を振って別れたマリーは、しばらく一人しょんぼりと箒を動かしていたが、急に腹を決めた。
箒を放り出し、小屋から飛び出す。
通い慣れたミモザの木まで来るのは簡単だった。まだ、紅熱病は館の使用人達の間で流行しており、いつもよりも人気がなかったからだ。
マリーは祈った。
オリヴェルに会えますように。そうしてどうにか会話できますように、と。
ミモザの木をするすると登って、バルコニーに辿り着く。
いつも閉じられていたカーテンは、オリヴェルの指示なのか、すべて開かれていた。
窓越しにベッドに座って本を読むオリヴェルが見えた。
マリーは嬉しいのと、今の状況の危うさに、うるうると涙目になった。
しばらくその場に佇んでいると、うーんと背伸びしたオリヴェルが、マリーに気付いた。
「マリー!」
オリヴェルはすぐさま起き上がり、バルコニーの窓を開けて駆け寄ってくる。
その部屋にいた女中のゾーラがあわてて出てきて、オリヴェルにガウンを着せながら、マリーを睨みつけた。
「まぁ! ネストリさんが言った通りじゃないの! どこから入ってきたの? 若君には会っちゃ駄目って言われていたでしょう、マリー!」
オリヴェルはポロポロと涙を流すマリーの肩をそっと抱いてから、キッとゾーラを睨みつけた。
「黙れ! それ以上、マリーを責めるなら、お前なんてここから追い出してやる!」
「わ…若君…」
ゾーラは青くなって後ずさる。
オリヴェルは冷たい顔のまま、部屋の中にマリーを連れて入った。
とりあえずマリーの涙を袖口で軽く拭ってから、オリヴェルはマリーをベッドに座らせた。
隣に座ると、オリヴェルは突然、頭を下げた。
「ごめん、マリー」
マリーはびっくりして、目をしばたかせる。
「どうして? どうしてオリヴェルがあやまるの?」
「紅熱病に罹って、ずっとミーナに看病してもらって…体調まで悪くさせてしまって。マリーにもオヅマにもずっと謝りたかったんだ。僕のせいで、ごめん」
「そんなの、全然大丈夫よ。今だってお母さんはこっちの温かい部屋で休ませてもらってる、って聞いてるわ。小屋に戻ってきていたら、私もお兄ちゃんも病気になっちゃってたから、お母さん、またずっと看病しなきゃならなかったろうし…」
何気なくマリーは話したが、オリヴェルは愕然とした。
「なんだって? マリー…君も、オヅマも病気になってたの?」
「うん」
「なんてことだ!」
オリヴェルは立ち上がって叫ぶと、隅で小さくなっていたゾーラにつかつかと歩み寄る。
「……どうして僕に言わないんだ?」
「そ…それは…その、女中頭様からの命令で……」
「すぐに呼んでこい!」
オリヴェルの迫力に気圧され、ゾーラはあわてて部屋から出て行く。
すぐにゾーラと共に現れたアントンソン夫人は、ベッドの傍らで所在なげに立っているマリーに気付くと、眉を寄せたが、それよりも部屋の中央で仁王立ちしたオリヴェルの剣幕に内心、驚いた。
それでも表情には出さず、いつものごとく折り目正しくお辞儀する。
「何か、御用とうかがいましたが…」
「マリーとオヅマも熱を出していたらしいじゃないか」
「……そのようで御座います。ですが、もう既に…」
「そういうことじゃない! ミーナに僕の看病をさせるよりも、彼らが優先されるべきだろう! ミーナはマリーのお母さんなんだぞ!」
「お言葉でございますが…」
アントンソン夫人は鹿爪らしい顔で、静かに述べた。
「お坊ちゃまの看護をするように…との命をご領主様が下したのでございます。この館で働く人間であれば、逆らえるはずもございませぬ」
「だったら、ミーナはマリーが病気になったことを知っていたのか!?」
「………」
「ミーナに知らせてもいないんだろう、お前達は!」
「……心置きなく坊ちゃまのお世話ができるように、との執事の配慮でございます」
「黙れ! この…」
オリヴェルは拳を握りしめながら、もどかしかった。
こういう時、オヅマは何と言っていたろう?
よくネストリのことを話していたら言っていた…あの、なんとか野郎…とか言う言葉。なにか汚いもののような……汚物野郎? いや、そんな言い方ではなかった……。
育ちのいいオリヴェルには縁のない言葉だったので、出なかったのも無理はない。
マリーは激昂したオリヴェルにしばらくびっくりしていた。
しかし急に黙り込んで考え込んでいる様子を見ている間に、ハッとここに来た目的を思い出す。
「オリヴェル!」
マリーは走ってオリヴェルの腕を掴んだ。
「大変なの! お兄ちゃんが領主様に呼ばれて行っちゃったの」
「なんだって?」
「お兄ちゃん…きっと怒られるんだわ。私達、もうここにいられない」
マリーは言っている間に涙がまたポロポロとこぼれた。
「冗談じゃない!」
オリヴェルは吐き捨てるように言うと、ドアに向かって歩き出す。
アントンソン夫人があわてて立ち塞がった。
「お待ち下さい! 若君! どこに向かわれるのです!?」
「父上のところだ!」
「今はご領主様のご判断にお任せくださいませ!」
「黙れ! そこをどけ!」
叫んでもドアの前から動かないアントンソン夫人に、オリヴェルは殴ろうかと手を振り上げたが、その手をマリーが掴む。
「叩いちゃ駄目! 痛いんだよ!!」
泣きながらマリーに言われて、オリヴェルは息を呑む。
いつだったか…オヅマが話してくれたことがある。
マリーとオヅマの父親は飲んだくれのロクデナシで、マリーはその父に殴られていたのだ、と。
ギリと唇を噛み締めてから、オリヴェルは手を下ろして、アントンソン夫人を冷たく見つめた。
「息子が父に会うのを邪魔するなら、お前がここにいる権利はない」
「………若君」
「二度は言わない。今まで黙っていたけど、その力を僕は持っているんだ。違うか?」
アントンソン夫人はその静かな剣幕にたじろいだ。
ただの病弱で癇癪持ちの子供だと、内心で軽蔑していたことを見透かされたのかと、途端に不安になる。
ドアの前からアントンソン夫人が立ち退くと、オリヴェルはマリーの手を握って廊下へと出た。