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昏の皇子  作者: 水奈川葵
第八章

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第百七十一話 巻き戻る運命

 その日の朝駆けは本来であれば、ヴァルナルは領地視察の為、不在であった。

 しかし黒角馬(くろつのうま)だけでの少人数の移動は思っていた以上に早く、あと一泊野宿の予定であったのが、夜の間に戻ることができたのだ。

 もっともその帰還を知っているのは、出迎えたネストリらわずかの従僕だけであった。


 朝駆けから戻ってきた騎士らの中にヴァルナルの姿を見つけるなり、マリーはすがるように叫んだ。


「領主様!」


 ヴァルナルはマリーの切羽詰まった顔に、すぐさま異変を感じ取って駆け寄った。


「どうした?」

「お母さんを助けて! ヘンなおじさんがお母さんを連れて行こうとしてるの!」


 その言葉に、ヴァルナルの顔は一瞬固まった。

 すぐに鋭く尋ねる。


「どこだ!?」

「南の隅にある祠。ポプラの道の向こう」


 マリーが泣きながら言うのを聞くやいなや、ヴァルナルは走り出した。

 その後をゴアンが追う。

 続けて行こうとした騎士達をマッケネンは止めて、しゃがみこんでマリーに尋ねた。


「マリー。その『ヘンなおじさん』というのは、どんな男だった?」

「えっと…なんか、髪がぴっとり貼り付いてて…」


 その特徴だけで、マッケネンはカールから聞いていた要注意人物について思い至った。

 ギョルムの逃亡を阻止すべく、騎士達に館内各所の出入り口を固めるように素早く指示を下す。数人を残してマリーの保護を頼み、自分はゴアンの後に続いた。


 その時、オヅマは厩舎で帰ってきたばかりの馬の状態を確認しているところだったが、そこに騎士団の最長老トーケルが顔色を変えてやってきた。


「オイ! オヅマ! マリーがなんか血相変えて来て…領主様が飛んで行ったぞ」

「えっ!」


 オヅマはあわてて厩舎から出ると、数人の騎士達が集まっている方へと走っていく。

 オヅマが来たのに気付いた騎士達は囲みを開いた。

 騎士達に守られるようにして、真ん中でマリーが泣いている。


「マリー! どうした?」

「お兄ちゃん!」


 マリーはオヅマに抱きつくと、母の危急を報せた。


「ギョルムの野郎か!」

「わかんない。オリヴェルもいるの! 助けて、お兄ちゃん」


 オヅマはマリーをトーケルに預けると、すぐさま祠に向かって走り出した。

 本来の道筋を行くのももどかしく、修練場を横切って壁に空いた穴をくぐる。密集した低木の隙を無理に通り抜け、花壇を飛び越え、ほぼ庭を突っ切っていくと、マッケネンの後ろ姿を見つけた。

 グン、と加速して追い抜かす。


「オヅマ! お前は待っていろ!」


 マッケネンが叫んだが、オヅマは無視した。

 灌木を迂回することもなく飛び越え、あっという間に先を走っていたゴアンも抜かしていく。





 ヴァルナルはポプラの並木道を走っている途中で、額から血を流して逃げているらしいギョルムに出くわした。


「ひ…ひ…ヒィ……助け……たすけてくれぇぇ」


 情けない声を上げ、チラチラと後ろを振り返りながら走ってくる。


 ヴァルナルはギッと眉を寄せて、腰の剣に手をやった。

 ギョルムはいきなり前方に現れたヴァルナルにギョッとしつつも、ほとんど転ぶような勢いで必死に駆けてきて、ヴァルナルに縋りついた。


「あぁ、助けてくれ! 領主殿! 気の狂った女が……ヒッ」


 話している間に、後ろを向いたギョルムの目に髪を振り乱して追ってくるミーナの姿が映った。

 血のついた白煉瓦を振り上げながら、憤怒の表情で迫ってくる。


「ミーナ!」


 ヴァルナルが叫んだが、ミーナの目にはギョルムしか見えていなかった。

 自分の息子を(しいた)げ、痛めつけ、殺そうとする男を、決して許さぬ母親の瞋恚(しんい)に燃えた眼。


「ミーナ!」


 ヴァルナルの声は、ギョルムの「ヒイイィィ!」という甲高い悲鳴にかき消された。

 ミーナが手にもった煉瓦を振り上げたと同時に、ギョルムはヴァルナルの背後に逃げ込んだ。一瞬、ギョルムに気を取られたヴァルナルの胸を、ミーナの振り下ろした煉瓦が(したた)かに打つ。


「ぐっ…!」


 うめきながらも、ヴァルナルは煉瓦を持つミーナの手首を掴んだ。


「離して!」


 ミーナが叫ぶと、グイと体を抱き寄せて耳元で囁く。


「ミーナ…落ち着け。私だ」


 低く穏やかな声に、ミーナは固まった。


 ヴァルナルは、ぽんぽんと優しくミーナの背を叩いて落ち着かせた。

 怒りに見開ききった薄紫の瞳がパチパチとまたたく。


「母さん…」


 (ほう)けたミーナの耳に、息せきって走ってきたオヅマの声が聞こえた。 


「母さん…大丈夫?」


 自分を気遣う息子の声に、ミーナの瞳から涙が一筋こぼれた。

 力の抜けた手から煉瓦が落ちる。


「若君…が……」


 かすれた声で、かろうじてつぶやく。

 すぐさまマッケネンが先にある祠へと向かい、そこで倒れたオリヴェルを見つけた。


「少々呼吸が乱れています。…すぐにビョルネ医師に診てもらいます」


 マッケネンがオリヴェルを抱きかかえながら報告する。

 オリヴェルの白い顔を見たヴァルナルは一瞬、眉を寄せた。


「頼む」


 短く言って、ヴァルナルはどうにか怒りを鎮めた。

 マッケネンは頷くと、オリヴェルをかかえたまま、館に向かって走っていった。


 ゴアンはヴァルナルの背後で腰を抜かしているギョルムを冷たく見下ろした。


「……帝都からおいでの方々は概ね優秀だが、中には阿呆も混じってるようだな」

「そ…そ…その女が私を殺そうとしたのだ!」


 ギョルムは逃げる時に転んだのか、顔に泥がへばりついていた。白の行政官の服も汚れている。


「領主様、ひとまずコイツは連れて行きます」

「そうしてくれ」


 ヴァルナルは振り向きもしなかった。 

 ゴアンはギョルムを立ち上がらせると、連れて行こうとしてオヅマにも声をかけた。


「オヅマ、行くぞ」

「え? でも、母さんが…」


 ゴアンはチラとヴァルナルとミーナを見やる。

 ミーナはまだ放心状態らしく、ヴァルナルが支えていた。


「いいから。ミーナのことは領主様に任せて…お前はマリーに伝えてやれ。母親は無事だと」

「…………わかった」


 オヅマはどこかムズムズと落ち着かない気分だった。だが、おそらく今ここで、自分のやれることはないのだろう…。


「お願いします」


と、一言、ヴァルナルに言ったのは、オヅマの妙なプライドだった。あくまでも自分がお願いして、ヴァルナルに母のことを頼んだのだ…と自分を納得させたかった。


 ヴァルナルはその時になってやっと振り返った。

 フッと笑った顔に、オヅマは安心と同時にちょっとした苛立ちも感じ、軽くヴァルナルを睨みつけたが、すぐに踵を返した。


 マリーの待つ馬場の方へ歩きながら、オヅマはふと…妙なことを考えた。


 虚脱した母の姿が、あの日……()の中で、父を殺した後の母の姿に重なって見えたのだ。


 オヅマが傷つけられたことで激昂した母。

 ()の中で死んだ母。

 あの事件は消えた。なくなったはずだ……。


 だが母が持っていた血のついた白煉瓦を見て、オヅマの脳裏には血のついた延べ棒が思い浮かんだ。


 必死に抗い、避けたと思っても、どこかで必ず運命というのは、本来の姿を取り戻そうとするのだろうか。………

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