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昏の皇子  作者: 水奈川葵
第七章
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第百五十六話 ケレナの噂話(1)

 ミーナは早朝に領主館敷地の南西の隅にある小さな祠に向かう。

 そこは普段ほとんど人も来ないような場所で、長らくその管理は信心深いヘルカ婆が行っていた。

 料理人としての職を娘のソニヤに譲った後も、領主館の一隅に住まわせてもらっているのだからと、ヘルカ婆は体があちこち痛んできた今もこの仕事を続けていた。しかしこの間、水の入った重い桶を運んでいたときに転んでしまい、足を捻挫してしまったらしい。


「じゃあ、私が代わりに行きます」


 ミーナはすぐさまヘルカ婆の代わりを申し出た。

 オリヴェルがヴァルナルと朝食を食べるようになってからは、ミーナがオリヴェルの朝食の準備をすることもなくなり、早朝は比較的ゆっくり過ごせるようになっていた。

 ここに来て以来、何かと世話を焼いてくれるヘルカ婆への恩返しができるなら、何でもしたかった。


 そんな訳でこの数日は、ミーナが祠の掃除などをしている。


「あら、ミーナさん」


 ポプラの連なる小道を歩いていると、声をかけられた。振り返ると、オヅマの家庭教師でもあるケレナ・ミドヴォア女史が立っている。


「こんな朝早くから…偶然ですわね。あなたもお散歩かしら? 少し寒いけど、いい朝ですわね」


 早口に話しかけてくるケレナにミーナは多少戸惑いつつも、すぐに桶を傍らに置くと、臍の上あたりで手を組み、頭を下げた。


「朝早くにお目にかかります」


 ケレナは目をパチパチと瞬かせると、苦笑した。


「まぁ…そんな畏まった挨拶をされるような身ではありませんのに。私など、ただの家庭教師ですし」

「いえ。息子がいつもお世話になっておりますから。辛抱強く接して頂いて、恐縮しております」

「オホホホ」


 ケレナは否定もできず、笑って誤魔化した。

 実際に、オヅマはケレナの授業で船を漕いでいることが少なくない。珍しく起きていれば、魔方陣の落書きをしていたりする。


「私も今まで教えてきたのは女のお子さんばかりだったので、まだ試行錯誤しておりますの。彼らの興味ある教材を用意できればよろしいのですけど」

「先生も大変ですわね」

「えぇ、そうですわね…大人になって、先生なんて呼ばれていても勉強ですわ。むしろ子供より熱心に取り組まないと、あっという間に追い抜かされてしまいます。子供の持つ集中力というのは、いつも目を見張るものがありますから」


 二人は話しながら祠の前にたどり着いた。

 大きな翌檜(あすなろ)の木の前には、白煉瓦で組まれた小さな祠が建てられている。屋根の部分だけが黒く瀝青(れきせい)で塗装されていた。


「まぁ、こんなところに祠堂(しどう)があるなんて思いもしませんでしたわ」


 ケレナは驚いたように言って、まじまじと飾り気のない質素な祠を眺めた。


「毎朝、ミーナさんが世話されているの?」

「えぇ…ずっとヘルカさんが管理されていたんですけど、この間、足を痛めてしまって、私が代わりに」


 話しながらミーナは祠から(さかずき)を取り出し、中に残っていた水を捨てると、桶の水を注いで元の位置に置いた。周囲に植えられた神に捧げるための花に水をやり、ついでに伸びてきた雑草をむしる。最後にポケットから香木の欠片を取り出すと、それを杯の手前に置かれた小さな陶器の器に入れて、火をつけた。

 フワリと、森の清しい香りに混じって微かな甘い匂いが漂う。


「あぁ…この香りを嗅ぐと、神殿にいる気分になりますわね」


 ケレナがスゥと深く吸って胸をふくらませる。

 ミーナは微笑した。


「神殿で使われる深鳴香(ジュデキュス)などはとても手に入りませんが、この地域には銀雪花樹(ルミリア)という似た香りの木があるんです。だから、ここの人達は自分たちの家の神棚にも、毎日のようにこの香木を供えるんですよ」


「まぁ、珍しいですわね。神様をお祀りするのは帝都の庶民もしますけど、さすがに香木を毎日焚くなんてできませんわ。あっという間に破産してしまいます。その木は帝都にはないのかしら?」


「寒冷な場所でないと、育たないらしいですわ。庭師が言うには」

「あら、残念」


 そこで一旦、会話は止まった。


 ミーナは静かな表情で、祠の正面で腰を落として片膝立ちになると、ピンと指を伸ばした手を胸の前で交差し、瞑目して頭を下げた。正式な神前での拝礼式だが、庶民で知る者は少ない。貴族であっても、古典礼法をよほどに叩き込まれなければ、ここまで自然と身につくことはないだろう。


 ケレナもまた、そうした拝礼があることを知らず、とりあえずミーナに(なら)って頭を下げた。


「この祠は何の神様を祀っているのかしら?」


 ケレナはすぐに顔を上げると、まだ祈っていたミーナに尋ねた。

 ミーナは目を閉じたまま、やさしく答える。


「特に決まってなくて、年神様をお祀りしているようですよ」

「あら。じゃあ今年はイファルエンケだから……恋人達の神ですわね。だからかしら? ミーナさんが熱心にお願いしているのは」

「え?」


 ミーナは目を開いた。

 振り返って目が合うと、ホホホとケレナは笑った。


「聞いておりますわ。ミーナさんがご領主様と随分とご昵近だと。この屋敷の人達はみな、優しいですわね。普通、主と自分の同輩の召使いがそんな仲になろうものなら、嫉妬してひどく当たる者も珍しくないのに」


 ミーナは困惑しつつ、首を振った。


「そんなことはありません。先生の仰る通り、私は一介の召使いなのですから、領主様と昵懇だなんて…畏れ多いことです」


 固い口調で返すミーナに、思っていた反応と違ったのか、ケレナは狼狽して言い繕った。


「あら、そんな……困ったわ。私、皮肉を言ったわけじゃございませんのよ。気を悪くされたのかしら? ごめんなさい」

「いえ、違います。本当に…本当に、私はそんなことは考えてもいませんので」

「あら……そうなんですか」


 ケレナはやや残念そうに言ってから、ふっと表情が翳った。


「まぁ、結婚すれば男は変わると申しますものね。ご領主様も以前の奥様とは上手くいかなかったようですし…」


 ドクン、とミーナの心臓が強く跳ねた。


 それまでにも何度となくヴァルナルの前妻の話は聞いていたが、たいがいが「田舎を嫌って出た薄情者」というものだった。話す者達のほとんどがレーゲンブルトに長年住み暮らしている者達なのだから、致し方もない。


 しかしケレナは公爵家からの紹介で来ている。

 点々と各地の貴族の家を渡り歩く中で、ヴァルナル・クランツ男爵の様々な風聞を聞いたのかもしれない。


「以前の奥様は…ここが嫌になって出ていかれたと聞いておりますが」


 ミーナがか細い声で言うと、ケレナは軽く溜息をついてゆるゆると首を振った。


「確かに田舎暮らしを嫌う女の方もいらっしゃるでしょうが、それでも夫がそれなりに気を遣っていれば、逃げるように出ていかれるようなことはないと思いますわ。まして幼い息子をおいて。私が聞いたのは、クランツ男爵が奥方を他の女性とくらべては非難していたと…」


「他の女性?」


「ミーナさんはご存知かしら? グレヴィリウス公爵の亡くなられた奥様のこと。リーディエ様と仰るのですけれど、美しくて、その上、とても賢い夫人でいらしたようですの。領主様は公爵閣下にお仕えすると同時に、リーディエ様にも相当に傾倒されていた……あるいは」


 ケレナはコソリと小さな声で囁いた。


懸想(けそう)されていたのかもしれません」

次回は2022.10.01.更新予定です。

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[一言] すこそくでオススメしてるやつがいて読んでみたら面白かった
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